2014年1月10日金曜日

映画「永遠の0」謎に解釈を加えてみる

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映画「永遠の0」を観た。これから観る方や、小説をまだ読んでいない方は、以下ネタバレなのでご了承下さい。
昨年この小説を読んで書いたエントリー(魂をわしづかみ「永遠の0」百田直樹著)の続編というか、解釈編。。。

女子目線での解釈
小説を読んで、真っ先に浮かんだ思いは
「なぜ、教え子に生還の切符を譲って宮部は死んだのか?
、、だってそうである。きっとそう思った読者も多いと思う。いかに夫が「こいつなら」と見込んだ若き大学生とは言え、それはそれ、これはこれである。
「なぜ、あんたが生き残らない!」となじりたくなるのが女心だ。
(おまけに、映画では岡田君である!どんな理屈を並べられても納得出来無いだろう!いや染谷君もいいんですけどね。。)
この物語の最初から設定されている命題な訳だが、明快な答えは小説でも映画でも語られない。観る者が各自考えなさい、、と言う事なのだろうが、この小説を読んでからずっと考えて二通りの解釈をしてみた。


最後の大博打を打つ
小説でも、映画でも宮部のたぐいまれな判断力は観客を魅了する。
彼が囲碁の達人である事が大きな伏線になっているのだが、映画ではあまりそこが強調されていなかった。

鹿児島の特攻基地で旧友と再会した時に、すっかり憔悴し切って座り込む宮部の手前にチラッと、碁盤が映っていた。監督はキチンと原作の意を汲んでいたのはあきらかだが、尺的に「宮部の囲碁の腕は名人級」というエピソードは割愛しなければならなかったのだろう。

先日、囲碁が好きな友人がこんな事を話していた。
「囲碁はとても女性的で将棋と全然違う。守りながら攻めるんだ。」
奇しくも彼が語った、この特徴が主人公宮部のキャラクターを端的に言い表している。
最初に小説を読んだ私は結末に納得出来なくて、もう一度読み返し、以下の仮説を立てた。そうでもしないと、自分を納得させられなかったからだ。(それだけ、主人公宮部の深謀遠慮はかっこいい!)

最初の仮説
「この大学生を生かして妻子の元へ差し向けた方が、戦争が終わった後、きっと家族はもっと良い暮らしが出来る。自分が帰るよりも。。」と咄嗟に判断して、出撃前に機体を交換し、置き手紙をした。

去年のエントリーに、この論拠を遠回しに書いてみたのだが、作者の百田氏は小説で巧妙に舞台装置を作り上げている。

宮部の証言をする老人達は
  1. 貧しい借家住まいの片手を失った老人(宮部を戦争初期の同僚として語る)
  2. 末期ガンで死の床に伏している老人(宮部を上官として語る)
  3. やくざの親分(宮部を戦争末期の同僚として語る)
  4. 会社役員の老人(宮部を教官として語る)
と、戦局を時系列にリレーする形で語り継いでいる。注目すべきは証言者の今置かれている生活状況だ。偏屈で被害者意識の強い最初の老人から、最後は会社役員。。大きく明暗を分けている、3と4の間には「士官」というラインが引かれている。要は高等教育を受けたか否かで引かれるラインだが、作者は偶然にこの描写をしたわけは無いだろう。

私は、太平洋戦争関連書籍をかなり読んで来たが、学徒動員で兵隊に取られた学生のうち、生き残って帰れた者は再び学業に戻っている。そして「学」の無いまま戦後に放り出された復員軍人は、なかなか辛い戦後を過ごしたらしい。

今はあまり語られなくなったが、「特攻あがり」とという陰口を父からきいた事がある。「特攻で生き残って帰ったものの、職が無くてしかたなく先生になった人がいたが、ろくな教師では無かった。」
何か物騒な事があると「復員軍人」が疑われた事を思うと戦後の治安の悪さが伺い知れる。横溝正史の小説では最初の容疑者はたいてい「復員軍人」だ。
古今東西、帰還兵士の社会復帰は大きなテーマである。通常の生活に戻れないまま、生活苦に陥ったり、荒んだ生活を余儀なくされた人も多いのではないか。百田氏はそのあたりの描写に抜かりは無く、また容赦も無い。 

このことを考えると、宮部がなぜ飛行技術が未熟な学生にエンジン不調の機体を譲ったのか。その深意が少しわかった気がする。
「この無謀な戦争には絶対に負ける。ここまで壊滅的に追い込まれたら日本はどうなってしまうのか。」
小説でも映画でも、宮部は大石(染谷)に「戦後どうしたいのか?」と、問いかけていたし、教え子達になかなか合格を出さなかったのも、自分は行きたくても、経済的に叶わなかった大学の重要性がよくわかっていたからだ。
現代とは比べ物にならない程、知的レベルの高い人々だった、、、と以前のエントリーにも書いた。至宝と言える人材を無謀な特攻作戦に送り出す事に、宮部はどうしても納得が行かなかっただろう。昭和恐慌が無ければ自分もきっと学校へ行けたという忸怩たる思いもあったのかも知れない。(小説ではこの下りが囲碁のエピソードと一緒に語られてますね)

とは言え、リスクは高い。結局、大石も不時着し損ねて死んでしまう可能性もある。一方、機体を譲らなければ、宮部は生き残って帰る可能性は非常に高い。戦後の自分には悲惨な生活が待っているとしても、生きて帰る方が、妻子を路頭に迷わせる確率は格段に低くなる。。と凡人なら考えると思うのだが、それでも彼は、戦後の事を考えて最後の「大博打」に出た。。のか。。



やはり透明に0リセットで考えた
、、、と小説を読んだ後は、こう自分を納得させたのだが、映画を見て改めて「ちょっと違うかな」と感じた。

最初の解釈は、歴史がどうなるか知ってる視点からの(しかも死なないで欲しいと思う女子目線)の解釈で、宮部はそこまで千里眼に先を見越していただろうか?大石君をまるで利用するような思考の持ち主だろうか???もしそうだとしたら、計算高すぎて嫌な人間だ。

否、絶対にそうではない。多分、真実はこうである。

戦争は破滅的な局面で、精神を病んでしまいそうに狂っている。特攻の命が下った時、宮部は自暴自棄になるギリギリまで追い詰められたが、エンジン不調を見抜いた瞬間に持ち前の「最後まで生きる努力」の粘り思考が回転したのだろう。全員が死んでしまうこの状況下に、たった一つのチャンスを見つけた。
この場合生き残りの切符を持つに相応しいのは誰か、、、心根が真っ直ぐで自分と価値観の近い、しかも上手く生き残れば、よっぽど社会に役立てる学歴を持つ若者が優先されるべきだ。よしんば、学生が死んでしまったらそれまでだが、自分が乗って生き残ったとしても、また特攻へと駆り出されるだけだろう。(そして、大石は今譲らなければ確実に死ぬ、しかも敵艦に届かないまま。)若い彼なら、不時着の怪我で後方へ送られて、また生き延びる可能性もある。
きっと終わると思える戦争も、いつ終わるかまだこの時点では判らないのだから、全体最適と「(日本という社会が少しでもまともな形で)生き残れる為の努力」をした上での、冷徹な判断だったのではないか。
ここまで決めて「さて、妻との約束を反故にしてしまう。」という最後の問題を考えて、託す思いでメモを書いた。。。(結果、戦後危うい所を宮部の築いた縁が松乃や清子を救ったわけだが。)
とにかく男性思考が苦手で「どうして妻子がいつも責務の後回し?!」とカリカリ来てしまう私にしては、なかなかいい線を突いたインサイトではと思う。

だから、百田氏はこの小説を「愛の小説だ」と語ったのかも知れない。

橋爪功が味のある演技で
「小隊長さんは本当につえ〜方だったんです。」
と語った台詞が、敵艦の弾雨を見事な技でかわしながら突っ込んで行くエンディングに重なる。映画を一緒に観ていた息子に
「どうして、弾が当たらないかわかる?水面近くだと、戦艦から打ちにくいからだよ。」と教えてやったら、「そうなの?」と目を輝かせて興味スイッチが入ったのがわかった。
本当に、男脳は悲しい程に「目的思考で余計な事を関連付けて考えられないせつない脳」だ。去年の夏に書いたエントリー(NHK BSプレミアム「零戦 〜搭乗員達が見つめた太平洋戦争〜」) を思うと改めて、最後の解釈の方が真実に近いのだと思う。

根源的な男女の愛、その外側を包むようにある、もう少し広い社会的な愛。日本人が紐帯とするものはそんな形なのかも知れない。