2012年2月25日土曜日

アゴラ読書塾第8回「安心社会から信頼社会へ」山岸俊男著

「安心と信頼の○○」大昔、こんなキャッチコピーのCMがあった。(多分金融系、、)メーカーの宣伝文句でも、この二つの単語は同義語として扱われている。私も、この違いなんて、気にした事が無かったが、本書の冒頭「この二つは違う」と定義している。
  • 安心は「意図」に対する期待
  • 信頼は「能力」に対する期待
 これだけ書くと、何だか分かる様な分からないような、、要は
  • 閉ざされた社会空間(マフィアとか、村社会とか、日本組織とか、、)で 集団を乱す行為(裏切り、盗み、怠け)をした時に、見せしめに罰する「鉄の掟」がある場合、社会的不確実性が排除されるので、「掟」を守っていれば安泰。→安心社会
  • 見知らぬ人同士(オープンな状態)で、基本的には「契約」をベースに相手の「能力」を信じて何かを取引する社会。→信頼社会
という事らしい。作者はこの区別がはっきりしていかなったので、これまで「信頼」に関する議論が混乱して来たと述べている。

真面目に「給湯室」の噂話を実証した研究書
読みたい本だけ読んで来た私の読解力では、それほど厚い本では無いのに苦戦した。多分、実験の経緯や結果を、文章だけで表現するとこんな感じになってしまうのだろう。
それはさておき、読んだ感想は
「これまで、給湯室や居酒屋で語られた来た『ヨタ話』を真面目に研究したんだ!」
と思ったのが一番大きい。
著者が多くの実験を経て導きだした二つの社会を構成する人々は
社内の人間関係には非常に敏感で、「誰と誰は仲が良い/悪い」とか「あの人はこんな癖がある」とか見知った同士の事は良くわかる(身内の視線にびくびくしている)のに、「よそ者」の能力や人間性を見抜く能力は著しく低く、対外的な関係を結ぶ時に相手の能力や人間性を正確に見極めて判断できない。(安心社会を構成する人々)※社内=村と置き換えも可
社内の人間関係にあまり関心が無く、多少のリスクを取りながら対外的な関係を結び、 時に失敗をしながらも、他者の人間性や能力を見抜く力(社会的知性)を身に付けて来た人々。(信頼社会を構成する人々)

という事らしい。
前者はトイレとか給湯室とか(或は喫煙所とか) でしきりに「吹聴」する事情通がこの社会を代表的に体現しているし、後者は伝統的な「ハリウッド映画」の主人公の特性だと思う。(噂好きのヒーロー/ヒロインなんて見た事無いし。。。)

日本人なら、うんざりする光景だろう。好むと好まざるとに関わらず、「吹聴」する人に上手く調子を合わせておかないと、自分にしっぺ返しが来るので「掟」に従ったふりをするのは、必要な「日本流社会的知性」だったりする。(著者の言う「信頼社会に必要な社会的知性」では無く)
しかし、この「安心社会」はもうまもなく崩れるだろう、、というのが、著者或はこの読書会メンバーの一致した意見である。

安心が揺らいだ時
「安心社会」に住む「低信頼者(人をみたら泥棒と思う人)」はひとたび「掟」が崩れ「社会的不確実性」が顕在化すると、一気に「不安」の海に投げ出され「利己的な行動」に走り易いとも、本書では指摘している。

すぐさま思いついたのが、昨年の震災直後の光景だ。
店頭から水とか乾燥食品、トイレットペーパー、紙オムツ、がきれいに消えてしまった。何も無くなってしまうならまだしも、生鮮食料品(調理が必要だったり保存の効かない食材)はあるのに、買いだめの効く物を必要以上に溜め込む行動に駆り立てた動機は
「入手出来なくなったら困る。誰も助けてくれない。」
と強く思い込んでいるからだろう。

どんなに酷い目にあっても、辛抱強く列を作って配給を待つ姿が、世界に「美談」として語られる反面、店頭では我れ先にと買い占めに走る。

恐らく、前者は「面が割れている地域の人達の中」で行動しなければならないから「並ぶもんだ」という掟に従ったのであり、後者は「顔の知られていない一人の買い物客」として匿名性の高い中で行動するから「利己的」に生きる本能に従って行動したのかも知れない。
池田先生の言う「偏狭な利他主義(安心社会)」と「寛容な利己主義(信頼社会)」はその本質を的確に言い表している。

日本は「信頼社会」へ変わってゆけるのか?
読書会の最後は、やはりこのテーマに行き着いた。
恐らく、これまでの「安心社会」は早晩崩れてしまい、「信頼社会」へ移行せざる終えなくなるだろう、というのが出席者の大方の見方である。
ただ、信頼社会の先駆者である欧米が、必ずしも BESTとは言えず、昨今の事情を考えても日本がそのまま「欧米型の信頼社会」になるとは、なかなか考えにくい。
「信頼社会」は高度な制度設計(司法その他)とセットにしないと、上手く運用出来ず、またそのコストも非常にかかる。
「安心社会」は人を何かに(それは土地だったり組織だったり)固定する単純な構造であるが故に、信頼社会よりも低コストで早く完成する。(池田先生が言う所の「主権国家は究極の『ムラ社会』」 )
下手に、日本的な「安心社会」と欧米型の「信頼社会」をハイブリットして「ブロン現象」に陥らないとも限らないので、なかなか頭の痛い話でもある。
與那覇先生の「中国化する日本」より→良いとこ取りしたつもりが、悪いとこ取りの最悪の結果の意:メロン程の大きな実がブドウの様に沢山成るつもりが、ブドウの様に小さな実がメロン程度の数しか成らない、星新一の短編小説より引用。

東洋的「勤勉革命」とジョブスが語った「三万人の熟練エンジニア」構想
読書会の最終盤。手元にしっかりメモしておかなかったので、どうしてこんな話になったのか記憶が定かで無いのだが、、、

人本主義(資源が無く居るのは人ばかり)で問題解決に「人」をどんどん投入する東洋的やり方と、そもそも人が少なく「物」と「金」で問題解決しようとする、西洋的資本主義、、という話の流れで、ジョブスとオバマ大統領がシリコンバレーで会談した時に出た話題を池田先生が提供された。詳しくは「スティーブ・ジョブスII」に書いてあるが
Appleは最早、米国内の雇用創出の役には立てない。(規制が厳し過ぎて米国内に工場はとても建てられないし、、)しかし、中国の工場で70万人の工員が製品を生産する為に、3万人の熟練エンジニアが必要で、そのエンジニアを米国内で育成する方法は無いのか。と大統領に問うた。「何も全員博士号を持つ必要は無い、ミドルクラスの学士レベルで十分であり、専門学校やコミュニティカレッジで十分育成出来る。」とジョブスは語った。オバマ大統領はこの話がとても印象に残ったらしい。
 この話で、ピンと気が付いた事がある。以前「配電盤の漏電」というタイトルでブログを書いた事があるが、東京理科大は東大OBが全面的にバックアップして「中間エンジニア」を大量に育成する為に設立された大学らしい。
Appleが欲しがっている「熟練エンジニア」の何割かは日本で賄えるのではないだろうか。明治の昔から
「理論と精緻な設計図だけでは、物の製造は出来無い。」
とかつて「世界の工場」だった日本企業は知っているわけだから、日本から排出するのはお手の物だろう。

今朝の日経にも「画面を見て手術する医師」(大圃研氏 37歳)という企画記事が出ていた。日本は内視鏡での術例も技術も世界一だから、もっと後進を育てて、世界にもこの術法を広めたいという。(37歳の若さで!!)
ご存知の通り、日本生まれの内視鏡は世界シェアを日本企業が独占している。(昨今問題のオリンパスはシェア70%以上)内視鏡手技は器用さを要求されるし、必要な消耗材もえらく高い!!!何だかここに「革新」のネタがありそうな気がしてならない訳だけど、キーワードは
  • 天然資源なし
  • 人はとにかく居る(少子化で減ってるけどまあ、世界的にまだ人口は多い方)
  • 平均して手先が器用
  • マニアックに作り込む
この資質を徹底活用出来る、「信頼社会」ばりの「戦略眼」があれば、生き残りのオプションが見えて来るんじゃなかろうかと思った次第。
【独り言】全国学力テストと並んで「全国手先器用さテスト」を文科省は本気でやった方がいいんじゃなかろうか。マジで。。「自分は手先が器用である。」と小さい頃から自覚してくれると日本の宝になります、きっと。

2012年2月19日日曜日

アゴラ読書塾第7回「失敗の本質」〜日本軍の組織論的研究〜

1984年 ダイヤモンド社より初版
確か去年の震災の後、池田先生がこの本をブログで取り上げたら、Amazonですぐに在庫切れになっていた。(恐るべし!)
その後、丸の内の丸善へ行った時、入り口にこれが山積みになっていた覚えがある。ハーバードビジネスレビューのバックナンバー(日本軍がいかにダメだったか図解で特集されてた号)や、似た内容の本がずらりと並んで、「日本組織論キャンペーン」だった。まぁあの原発事故の直後であれば仕方ないと思う。
よっぽど買って読もうかと思ったけれど、何だか気が進まな無くて止めてしまった。薄々内容に察しがついたのと、ダメ出しばかりインプットしても、解は得られないなぁと思っていたからだ。

でも、今回読書会で取り上げられて、半ば強制的に読む機会を得て良かった。「しょーもな!」と高みの見物や、「何をやったってダメだ。」と思考停止してしまうのは簡単だ。
 しかし、事例を見つめる事から逃げていては、同じ事を繰り返すだけだ。

適応し過ぎてしまった故に「適応能力」を排除してしまった日本軍
この著書の真髄は、この一言に尽きる。これを知っているといないとでは、雲泥の差が生まれる。

本書は80年代前半に編纂された。バブル期前に書かれた事を思うと、慧眼だろう。前半は
  • ノモンハン
  • ミッドウェイ
  • ガダルカナル
  • インパール
  • レイテ
  • 沖縄
と、陸海軍それぞれが大敗した作戦のアウトラインを追っている。歴史上の事実を細かく知っている人は、後半の分析だけを読まれても良いとおもう。
読書会での、新さんのレポートがうまくまとまっておられたが、大雑把に言えば、第二次世界大戦で日本軍は本質として、、
  • あいまいな戦略目的
  • 短期決戦の戦略志向(『嗜好』と言ってもいいかも!!)
  • 主観的で「帰納的(個々の事例から一般に通用する原理法則を導きだす)な戦略策定「空気の支配」
  • 狭くて進化のない戦略オプション
  • アンバランスな戦闘技術体系
  • 人的ネットワーク偏重の組織構造
  • 学習を軽視した組織
という特性を持ち、米軍はその反対であったと考えればほぼ当たっているらしい。(この項目は第二章の小見出しを羅列しただけだが、何だか思い当たる節ばかりで、こうまで並ぶと気が重くなる。。)
 米軍の方が、システムを柔軟に組み替え、責任の所在を明確にし、評価システムを厳格にして信賞必罰は徹底していた。パールハーバーの奇襲を受けた当時のトップですら、責任を取って左遷されている。

結論としては、日本人は勝ちに乗じた時は、調子に乗って阿吽の呼吸で素早く対応し、快進撃を続けられるが、長期戦になるとビジョンが無いまま始めたツケが回って、軌道修正、方向転換、早期撤退が出来なくて、トコトンまで転がり落ちてしまう。
、、何だか、この手合いの内容は書いてて飽きてしまった。読書会を通じて散々学んだ事である。そして、司馬さんもずっと語っていた事である。

日本企業にも忍び寄る「古層」の陰
さらに厄介な事に、この「癖(古層)」は簡単に直せるものでは無い。。というのもどうやら理解出来た。では、どうしたら良いのか。座して死を待つのか。。
多分、それが一番現実的に起こる事では無いかと、近頃思うようになった。いや、皮肉では無くマジで。
行くところまで、行ってど~しよ〜もない状態にならないと、パラダイムを組み換えられない。今の日本企業に起きているのはこれだと思う。

著書の中で、唯一褒めているのが「日本企業」だった。日本型組織の良い面を、日本企業は継承しているというのだ。バブル前夜、あの頃を思い出せば確かにさもありなんである。
ソニーはどうしようもなく格好良く。
ホンダはトンデいた。
今の日本企業はこの「失敗の本質」で分析された日本陸海軍に不気味に似ている。
ソニーは成功体験が縛りになって時代の趨勢を読み誤った海軍だし(読書会レポーターの新さんの例え)、松下が「巨額の経常赤字」を出したと聞くと、肥大化した組織に汲々とする陸軍を思い出す。(関係者の方ごめんなさい。)
赤字は出していないとしても、次に稼ぐ柱が見えていない企業(汗!)は「取ったはイイけど増援のアテが無く、孤立して203高地を守る旭川師団」のようだ。

本書は、日本企業が上手く勃興出来たのは、戦後の焼け野原で、財閥解体、公職追放と、蓋をしていた上世代がオールクリアになり、若い現役が、やんちゃし放題、やりたい放題だったからだと分析する。正に、日本型組織の花形時代だったのだ。
そして、その花形も老いた。
今度は「時間と老い」が第二の敗戦をジンワリと招き入れるだろう。

これは、あくまで私の主観だが、慌てて何処ぞから、思想なりシステムなりを付け焼刃で持って来ても、子息に速成で外国語を身につけさせても、私たちが「古層」から抜け出せないのならば、かえって悪夢を招きかねないと思う。民主党にうっかり政権を渡してしまったのも、慣れない「舶来システム」に深い所で拒否反応を示したからで(與那覇先生の言う「再江戸化」)これ以上、最悪の事態にならないようにしなければ、、。

心しておく原則
では、どうしたらいいのか。。この答えはなかなか難しい。直感で思うのは、
「とにかく、変化出来る余地を残しておく。」
の原則をいつも心するに尽きるのでは無いか。特に、不安定な世相ではそれが肝心と思う。

読書会や日頃の業務を通じて、つくづく思うが、日本人は病的な「潔癖/揃えたい主義」である。
これは山本七平的に言えば、90日サイクルで変化する気候に合わせて、稲作をキッチリ遂行しないと、皆が飢えるという強烈な行動原則が深く植え付けられたゆえんであろう。
上り調子の時はそれで良い。
今の様な下り時期に、先鋭的な事をギリギリやると、周囲が見えないまま皆で落っこちて行ってしまう。(狭くて進化の無い戦略オプション)
塩野七生さんがいみじくも語った
「無駄な物からしか新しい物は生まれない。」
事を思うと「芽になりそうな新しい物」を守るのが、自分達世代の役割かなぁと感じている。(育てて成長させるのは、今の30代の役割)
これはなかなかテクニックが必要で難しい。
ただでさえ、無駄が許されない時勢において「狡猾に守る」くらいの知恵が必要だし、「目利き」でなくてはならない。ゴミ屋敷のように何でもかんでも取っておくのは、さらにダメだと歴史が教えてくれている。

目利きになるって大変だ。絶えず身をさらして変化に敏感にしておかないとこれは難しい。本書の中の印象的な一節を紹介して、今日のエントリーを締めたいと思う。
彼等(陸海軍人)は思索せず、読書せず、上級者となるに従って反駁する人もなく、批判を受ける機会もなく、式場のご神体となり。権威の偶像となって温室の裡(うち)に保護された。

2012年2月12日日曜日

アゴラ読書塾第6回「神も仏も大好きな日本人」島田裕巳著

一昨日のアゴラ読書塾は「神も仏も大好きな日本人」の著者島田裕巳さんがゲストだった。今回は池田先生が
「まぁ、読まなくてもいいかも知れません。」
とおっしゃるのに甘え、特に読まないで臨んでしまったのだが、、やっぱり著書は読んでおいた方が良かったかも。。そのうち読んでキチンと感想をアップしたいと思う。

という訳で、今回は島田先生が、池田さんと対話していた中で面白かった語録を中心に感想を述べたいと思う。理路整然と沢山の事例や知識をバックに述懐される池田先生に比べ、島田さんは「ポン!」と印象的な発言をなさる方。同じ年のお二人は、いい意味で中和し合って非常に印象的でした。

「日本人は無常観の民族なんですよ。 」
池田先生は、常日頃
「このままでは、日本は立ち行かない!これではいかん!」
と熱い思いをCoolに表現しておられますが、島田さんは正反対。
同氏は、宗教を学問している方なので「熱く思い込みにたぎった空気」の「いなし方」を知っておられるなぁ、、というのが、この一言に現れています。
「幸福の科学」とか「ヤマギシ会」とか、何となくお付き合いするには、ちょっとシンドソウダナぁという所とも、対談したり直接お話をしたり、、。
そこで、
「宗教を研究しているのに、何の宗教も信じていないなんてけしからん!」
と、相手にヒートアップされる事がままあるそうです。

「なぜ、宗教を研究するのに、何か宗教を信じていないといけないの?」

と島田氏は疑問を呈します。この「常に疑問に思う。」姿勢はアゴラ読書会でも垣間見られ、そのチョイ、チョイっと水を刺す感じが「上手いな」と感じました。
言うなれば「うどんを茹でる時の差し水」程度。バシャーっと大量に水を掛けてびちょびちょに鎮火させるという手合いでは無く、上手に沸き過ぎを押さえる感じが、場の空気を活性化させたなと思います。

話題としては、ここまで積上った借金どうするよ?経済学者は一様に
「破綻ははっきり目に見えているのに、政治家は選挙で負けるのが怖いから問題を先送りにしている、、バカである。」
が、主張な訳ですが
「まあね、、日本人は無常観の民族ですからね。いい時だけ楽しんだらいいんですよ。年間の死亡者も少しづつ増えて来てるし、こんだけ物に溢れた国は他に無いですよ。」
と島田氏。
会場思わず笑いが沸きました。日本人の特性を的確に言い得て妙ですね。
この「どうにかなるやぁ。」と思っているのも日本人だし、妙に細かい事が気になり、左右の人を気にするのも日本人である。。と島田氏は言いたかったようです。


「無縁社会って。。あれはNHK支局の人とか朝日新聞の記者さんとかが、無縁社会に入っちゃった人なんですよ。」
池田先生も
「まぁねぇ、、地方の支局長クラスみ〜んな単身赴任族なんですよ。」
と絶妙な相づち。ハッハッハ。妙にこの言葉に共感してしまう。
島田さんの住む世田谷は「地域のつながり」が強くお祭りだとか何だとか、妙にいろいろあって「無縁社会」と言われてもピンと来ないんだそうだ。
、、私もそうかも、、と考える。

例えば、昨日は土曜日で休日だったけど、終日中学校のPTA広報紙のレイアウト作業に追われました。(素人の集まりだから原稿整理が下手くそで、修正に次ぐ修正で目も当てられない惨状)
夫と言えば、息子のサッカー部の審判に行ったり、今日もサッカー部の総会で半日潰し、今は、息子の友達(これもサッカー部)が二階に遊びに来ていて、大はしゃぎでゲームをします。

これってドップリと「有縁社会」に漬かり込んでいる証拠で、表面的には「無縁社会」とは無縁。。なわけです。
でも、、と考る。(恐らく島田さんも思われるだろう)有縁社会は絶対善で、無縁社会は絶対悪と考えるのは、早計過ぎる。
有縁には延々と続く「うっとおしさ」があって、周期的に「あ〜〜もうこんなとこヤダ!」と人々に思わせる「閉塞感」とワンセットである。(私なんて年中思ってます。ああ!羽があったら飛んで行きたい)
それでも、なぜここに居続けるのか。個人的な事を言えば、この有縁社会が無ければ、とても子育てしながら仕事が続けられないからで、面倒な頼まれ事(老父が趣味で行う歴史講演会のプレゼン資料作りとか)も普段、突発的に何か起きた時に
「仕事なの、お願い!」
と傍若無人に子どもの面倒を押し付けているその迷惑を、返せる時にご恩で返さなければならない、、という強いマインドセットに支配されているわけです。(地域の評判を落さないようにしないと、回り回ってどこかで囁かれるからなぁ、、とかね)

だから「いいとこ取り」で美味しい部分だけ得ようとすると「集団の息苦しさ」に耐えている層の不興を買います。
もし「我慢の層」がみんな我慢しなくなると、集団は空中分解するから「いいとこ取り」は叩かれる。この叩くを、だれか一人のリーダーが意図的にやるわけでは無く、全員が空気を読んで行う所に日本的なものを凄く感じるわけです。(長期的関係ですね)

そのうちこのアゴラ読書塾でも取り上げれられるかもしれないけれど
「無縁・苦界・楽」網野善彦著
は、縁切り寺とか、地域とは切り離された集団の記録を延々と語っている書物で(あまり面白く無いですけど)それによれば、「無縁の集団」は決して不利な意味合いのものでは無く、時にその自由さを最大限に使った形跡があるようで、なかなか興味深いです。

「政治なんてのはしょせん『まつりごと』なんです。小泉さんはきっと海老像の真似をしたに違いないですよ!」
一同、爆笑。確かに大和言葉では政治の事を「まつりごと」と言う。
小泉元首相は本当に舞台好きで、首相になる前(多分厚生労働大臣だった頃)内閣が総辞職してしまったので、大臣室を引き払うべくみんなが支度している中、早々に荷物を引き払って
「これからオペラを観に行く。」
とサバサバした様子で、どこかの新聞記者に語ったと言う。
「小泉劇場」と言われたあの「記事にしやすい」名文句は、日頃の趣味も関係しているのでしょう。
ここで、昨日観た大河ドラマ「平清盛」のワンシーンを思い出しました。
清盛の父、忠盛(ただもり)が蔑まされた武士でありながら、昇殿が許される身分となって、初めて内裏の宴に招かれた時、、。客人であるはずの忠盛に「舞を舞え」と藤原摂関家当主が命じ、その屈辱を甘んじて受ける忠盛。わざと楽師にリズムを外させ、それで調子を少し外した忠盛を周囲の貴族達が、酒を浴びせかけて嘲笑する。末席にいた清盛が勢い余って飛び出そうとするのを、脇に居る同僚の義清(後の西行:藤木直人)が
「これは、まつりごとだ。そなたの父もそれは承知の上だ。」
と押しとどめる。
くぅ〜カッコイイですねぇ。。
じゃなくって、ああそうかもな、と島田先生の言葉を思い出しました。
日本の「まつりごと」はいつもこんな感じで、新参者をイジメ、排除しよう、排除しようとして来た事の連続なのです。
恐らく、永田町の予算委員会会場と、御所の昇殿と、場所が違うだけでやって来た事は「同じ」なんじゃないのぉ。と問いたくなりましたね。

何だか今回は脈略無く、肩に力が入っていないエントリーになってしまったが、改めて島田さんの本を読んでみようと思います。


2012年2月5日日曜日

アゴラ読書塾第5回「日本人とユダヤ人」山本七平著とNHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか」

いつもマインドマップで講義をメモしている。
。。。かなり時間を書けて書いたエントリーが消えてしまった。。。最後に画像を追記しようとiPhoneからアップしたのが事故の元。初期の状態に上書きされて、書いた文章が消えてる(;;)
 でも、これは何かの啓示だと思い直して構成を大幅に変更して再トライ!

今週の読書塾のお題は「日本人とユダヤ人」(山本七平著)。
イザヤ・ベンダサン名義の著作を何処かで見た記憶がある。発行された1970年に300万部を越すベストセラーとなったそうだ。今回は、アゴラ読書塾で取り上げた「日本人とユダヤ人」と今、NHKスペシャルで放映されている「ヒューマン なぜ人間になれたのか」シリーズの二つを関連付けて感想を書いてみたいと思う。

風変わりな著書
「日本人とユダヤ人」は先週の丸山眞男に比べたらとても読み易い本だった。ユダヤ人と日本人を、ユダヤ人の視線から記述するスタイルで、的確にその違いを描写している。ほんの一例を挙げれば、、、
  • 日本人は安全と水は只だと思っている、別荘育ちのお坊ちゃん。
  • 90日サイクルで季節が巡る気候条件だから、キャンペーン型農業にしないと稲作が成り立たず、一斉に皆が動くという訓練を1000年に渡って行って来た。(その間他民族の侵略を全く受けないという地理的条件にも恵まれた)
  • 遊牧(畜産)をした事が無いので「生殖と利殖」を日本人は結びつけて考えられない。遊牧民にとって家畜を増やすのは唯一の「生産手段」であり農民が畑を耕すのと同じ感覚で捉えている(人間奴隷に対しても考えは同じ)
といった所だろうか。ユダヤ教については非常に造詣が深く、日本をこれに対比させる事でそれまであまり考えられなかった事を浮かび上がらせているのだろう。恐らく、刊行された時はかなり話題になったと思う。
ただ、、改めて感想を書こうと思うと、どうも筆が進まない。たぶん、私が理解し切れていないのだろうが、一つ一つの記述が断片的で読み終わった後、目の前に砕けたツボのカケラが散らばっている印象なのだ。(ピースは渡した、後は自分で組み立てなさい、、と言われている感じ、、)
この印象に関しては後述したい。


宗教と暴力
アゴラ読書会では、この「日本人とユダヤ人」に端を発して、池田先生から深遠なテーマが提示された。
人はなぜ「信じ込みたい」という衝動に駆られるのだろうか?
これは強い本能に近いのではないか?
非常に示唆に富んでいる。私も気になっているテーマの一つだ。池田先生は自身が学生時代に経験した「内ゲバ」の体験談を例に挙げながら、社会学でも説明困難とされる、この難題についてレクチャーをして下さった。(詳細:池田信夫ブログ「宗教を生みだす本能」)

曰く、人類はその始まりからずっと戦争状態にあり、成人男子の25%の死亡原因が「殺人による」という調査結果も考古学ではあるらしい。
宗教という物を考える時、この「暴力」という補助線を入れる事で、その存在意義が浮き上がるのではないか。。というものだった。
人間は一人では生きて行く事が不可能で、「自分の身を守る為の集団」を作り、その集団を統率する為に「宗教」が生まれたのではないか。

というのが、池田先生がとっている説であろうと私は理解している。


NHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか」
奇しくも、この一月からNHKスペシャルでこんなシリーズが特集されている。全4回のうち既に2回が放映されているが、この内容が、今回アゴラ塾で取り上げている内容と極めて近い所をレポートしているように思える。(今ならNHKオンデマンドで視聴可能です)
その内容をかいつまんで説明すると。。。

人類は20万年の進化の歴史の中で
  1. 血族を越えて協調し
  2. 道具を作り
  3. 農耕を発明し
  4. 都市を作って分業を発明した
というのが、このシリーズの大きな4つのテーマ。
そして、第1回と第2回の内容が、今回のアゴラ読書塾で語られた内容を、良く補完していると思える。
人類(ホモサピエンス)は二足歩行を選択した結果、他の動物よりも「難産」で「早産な子孫」が繁殖の基本になってしまった。(骨盤が狭くなって子どもが産道を通るギリギリの大きさで生まなければならないから)これは「協調」しなければ生存が難しい事を意味し、最初は血縁を基準としたグループで行動をするようになる。この時から「同じグループである」事を示す装身具や化粧道具が既に使われていた。
  これは、池田先生がアボリジニの通過儀礼を例にあげてた話と符合する。オーストラリアは地層では最も古い大陸でアボリジニは、太古の生活様式をそのまま残している種族だそうだ。子どもが成人する時の「通過儀礼」の為に、生きる事に直接関係無さそうな、「唄」「踊り」「演劇」等を4ヶ月近くも行って濃密な儀式を行っている。
宗教がそう言った「通過儀礼」的な芸能/芸術と無関係で無い事は周知の事である。

そして、食べる為に道具を発明し(投てき具/石の鏃を付けた槍を遠くまで飛ばす補助具)この道具の作り方を「共有」し始めたのが地球の気候が大きく変動し始めた氷河期からだそうだ。(このあたりから、池田先生が取る説と若干順序が違って来る)
獲物を獲る道具は、武器にもなり、最初はルールを守らない仲間を「懲らしめる」道具としても使われるようになり、そのうちグループ間での闘争にも使われ始める。
いわゆる「人類の戦争状態」の始まりと言っていいのかも知れないが、NHKスペシャルでは「協調し関係を持とうとるす基盤」が人類の最も底辺にあるのではないか、、、という説を取っている。この事を示す印象的なエピソードが番組では紹介されていた。
2003年、イラクに駐留していたアメリカ軍が、ナジャフという村に住む宗教指導者に和平交渉の仲介役をお願いしに向った時の事。街の住民達はアメリカ兵が宗教指導者を捕まえに来たと誤解し、彼らを取り囲んでしまった。殺気立つ空気、アメリカ側も武装しているので、危や一触即発の場面で、アメリカ側の司令官が「皆、笑え!」と命令を出す。膝を付き、銃口を下げ、歯を見せてにこやかに笑った瞬間、空気が一変して事態は沈静化された。この司令官は、世界80カ国以上の国に派遣された経験を持ち、これまで笑顔が通用しなかった事が無いと言う。「あの場合、笑顔しかない。」と咄嗟に判断したとか。。
グループ間の結束を保つのが「宗教」であるとするならば、異なるグループ間の果しない抗争を止める手段は、さらにその昔、
生き残る為に協調した、、という人類が最古に持つ仕組みに訴えかける
 というヒントを示しているのかも知れないと考えている。


バラバラのピース
随分、遠回りをしてしまったが、最初に書いた「読んだ感じが『バラバラのピース』に思えた」のその理由が少し見えて来た気がする。
 恐らく、山本七平が書いていた時代は「書き手がその責任において思う所を深く書く」だけで良かったのかも知れない。

山本七平は、太平洋戦争中に兵隊に取られ、フィリピンで悲惨な作戦を強いられ、最後は捕虜になるという体験をしている。私の敬愛する司馬遼太郎とも数回対談しているが、実戦経験のある山本七平にはどこか「徹底して社会を見据える冷たさ」があって、その肌合いが司馬さんとは随分違った、、と対談を担当した編集者が語っている。
もっと対談を重ねて、一冊の本を出したかったそうだが、司馬さん側が消極的で立ち消えになってしまったという。

山本七平の気持ちを思うと、随分辛かったろうと思う。冷たく突き放さなければとてもでは無いけれども、書き切れなかったのだろう、正に身を斬る思いで書くから、こんな風に「バラバラ」の感じなのだ、、とやっと思い至った。

後世に生きる人間が、それを慎重に統合してくれる事をきっと期待していたんだろう。
ふと、NHKスペシャルで見た考古学者達の姿を思い出す。素人には石の塊にしか見えない地層から、人間の営みを正確に読み解く姿は、表現力豊かでリアリズムの目を持った一流のストーリーテラーを彷彿とさせる。

そう言えば、幼い時、考古学者になりたいと思っていたのを思い出した。夢は叶わなかったが、市井の人間でもここまでの情報が得られるのだから、いい時代に生まれたなとも思う。