2012年8月12日日曜日

アゴラ読書塾Part3第5,6回スティーブン・ピンカー/サミュエル・ボールズ/ダグラス・ノース 〜人類の基底部に存在する暴力〜


先週はマシン不調の為、ブログ更新が滞りました。ですので今週は「アゴラ読書塾」の二回分をまとめてレポート。いずれも、海外の経済学者や心理学者が最近発表している学説を取り上げ、今期のテーマである「戦争する人間」を補完する構成になっています。


スティーブン・ピンカー(暴力にまつわる社会的通念)
「どうして人類は平和でいられるのか考えるべきである。」
不勉強で全く知らなかったのだが、ピンカーは世界でも有名な心理学者だそうだ。日本ではハーバード大と言えばサンデル教授が有名だが、ピンカーは心理学の教授を同大学で勤めている。大衆向けに科学書を数多く執筆しているそうだ。
そのピンカーが2007年のTED(カルフォルニアで年に一度行われる様々な分野の人がプレゼンテーションを行うカンファレンス)で行ったスピーチが「暴力にまつわる社会的通念」である。


20分程のスピーチなので、聴いて頂くのも良いが、一番肝の部分を要約すると。

「暴力は有史以来低下して来ている。」 その理由は
  1. トマス・ホッブスが正しかった(人間は自然状態では「やるか」「やられるか」で常に暴力にさらされていたとの説を取った人物。ずっとそれを続けていては共倒れなので、暴力に寄らない中央集権国家が出来、殺人による死亡率が低下した。)
  2.  人生は取るに足らないものだと思っていた価値観がテクノロジーの進化によって「意味」を成しはじめたから。(それまでは死んでしまう事に無頓着だった。)
  3. 「非ゼロサムゲーム」の浸透(どちらか一方が他方の分を丸取りするのでなく、双方に利益をもたらす為に争わない方が有利にである。ポジティブサムゲームの増加)
  4. 人間は進化によって「共感」する事が出来るようになった。(但し、スタートは「血縁」だけに限り、それが村落→一族→部族→国家→他の人種→男女へと共感の範囲を広げて行った)
「これまでは、『なぜ戦争をするのか』と問うて来たが、本当は問いが逆だったのではないか、『どうして平和を保てているのか』と問うべきではないか。他者に自分の姿を重ね合わせることで、自分の人生の立場が偶然の結果と気づかされる。そして、それは誰にでも起こりうる事だろう。『我々の間違った行い』ばかりを問うのでなく、『正しい行い』を問う事は価値ある事なのだ。
池田信夫氏に言わせれば
「いかにも、アメリカ人らしい最後は『明るい結論』ではある。」との事だが、心理学という全く畑の違うピンカーが「そもそも、人間には攻撃性が内包されている」と言い出している所が興味深い。


サミュエル・ボールス(偏狭な利他主義を唱えた人物)
ボールズは経済学者であるが、ラディカルな論をはる人物らしい。
「偏狭な利他主義」=「互恵的利他主義」(後で見返りが期待されるために、ある個体が他の個体の利益になる行為を当面の見返り無しで取る利他的行動の一種)の研究に熱心だったボールズは、
集団を守るには「単純な利他主義」の集団では、「フリーライダー」に食い物にされるだけなので、「身内のみを大事にし、他者は排除する」前提の集団での「利他主義」(偏狭的利他主義)
を唱えた。以前のブログで図解した下記の図を参照されたい。

血縁関係と偏狭な利他主義(第3回ではグループの仲間であると識別するために、言語や宗教、音楽があるという説を検証した。
 集団を維持する為に「偏狭な利他主義」という方針をとり、集団を食い物にする「フリー・ライダー」を抑制する仕組みとして
  • 恥じ
  • メンツ
 という感情を人間の脳に深く埋め込むというメカニズムを発達させた。というのがボールズの説らしい。


ダグラス・ノース(ゲーム理論の長期的関係)
ノースはノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者である。
彼はそれまで「財産権(所有権)が資本主義経済システムを支えた」と提唱していたが「Violence and Social Orders」(左図)ではその理論を覆して「暴力が社会秩序の根底にある」として大きな反響を呼んだそうだ。
ノースは90年代に「ゲーム理論」を使って、内証的に「所有権理論」を説明しようとしたが、ゲーム理論では結局「長期的関係」が唯一の解となってしまい、「全員が合理的に行動する。」事を前提としたこの制度では、集団の規模の拡大が望めない。
読書塾Part1で使ったゲーム理論の図
そこでノースは、
  1. 暴力を独占して国家を支配する階級と被支配階級とに分化して肥大化する国家(自然国家:中国が代表例)
  2.  オープンアクセス秩序を成立させた近代西洋国家
という二つの国家の有りようを定義し、「オープンアクセス秩序」の国家が成立する条件として
  • エリートの中での法の支配
  • 私的または公的な永続的組織
  • 軍事力についての統一された政治的支配
の三つの条件が必要だと定義した。池田信夫氏は、この条件を解説する時にシンガポール等の「開発独裁」を例にとりながら、
「『エリートの中での法の支配』という事はつまり、経済発展に「民主主義」は関係無いという事です。」
と、背中を後からたたかれるような、目の覚めるコメントをされた。
経済発展は人々が少しでも豊かに暮らせるように、、という正の面ばかりで無く、負の面「国家対国家が相手よりも抜きん出る為に最後は経済力に拠る。」
という、言わば「暴力」を最大限に肥大化させる為に興った事は、戦争の歴史が雄弁に物語っている。ノースは
経済力を背景にして武力を強めた国家が世界に領土を拡大し、植民地から略奪した富によってさらに経済力を拡大する・・・という正のフィードバックが起こり、資本貯蓄が進んで産業革命が興った(池田信夫メルマガより)
 と定義付けているそうだ。これは「経済的な土台が法的・文化的な上部構造を規定する」という、マルクス以来これまで語られて来た図式をひっくり返す理論らしく、これから議論が重ねられるそうだ。


中国でも西欧諸国でも無い日本
読書塾では、散々語られて来た事だが、このノースが規定している「自然国家」でも「オープンアクセス秩序」の国家でも無いというのが、日本だ。
読書塾Part1の時のマトリクス
 真に法治国家でも無く、百姓一揆の直訴と変わらないぬるい訴えからいつまでも抜け出られ無い日本の「古層」は根深い。丸山真男の講義録にはこの「日本の古層」が実によく捉えられている。。
、、、この所、毎回エンディングに池田信夫氏が辿り着く嘆き節の一節であるが、「法の支配」とは国家と言えど法の下に従う、という苛烈な厳しさを日本人はキチンと理解していない事は、昨今のグズグズな政治状況を見ればよく分かる。

という事で、今回はこれまでの内容を改めて確認する感じで感想はこれまで。
次回はいよいよ、フランシス・フクヤマの読解に入る予定。さてさて、どこまでついて行けますか。。

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