2012年7月29日日曜日

アゴラ読書塾Part3第4回「中国の大盗賊・完全版」高橋俊男著 〜漢の高祖劉邦から中国共産党の毛沢東まで〜

司馬遼太郎の「項羽と劉邦」は隠れた名作
「中国は漢の時代から、共産党に至るまで、しばしば『大盗賊』が統治者として君臨して来た。」
大胆に要約すれば、今週のお題本はこう言いたいのだ。砕けた語り口で「盗賊」の定義から始まり




  1. 漢の劉邦
  2. 明の朱元璋
  3. 明を倒して帝位に着いた李自成(わずか40日で帝位を追われる)
  4. 太平天国の洪秀全
  5. 共産党の毛沢東
と時代順に章立てが並ぶ。1989年に出版された当初は、最後の「毛沢東」の章が無かったそうだ。政治的配慮で割愛されたのかも知れないが、ここが無いと、本書の魅力は半減してしまう。毛沢東とて、結局は過去の大盗賊類型であると結論付けたい訳ですからね。

結局、色々な人から「毛沢東の章を読みたい」とリクエストされ、割愛部分が復活して「完全版」と命名されたそうだ。


文武両道はありえない儒教の国
本書の冒頭、著者は「盗賊」をこう定義する。
  • 必ず集団である
  • 農村部で食い詰めた「あぶれ者」で構成されている
  • 力をたのみに、村や街を襲い「食糧」「金」「女」を奪う
  • 都市を占拠し国都を狙い、果ては天下をとってしまう
「ああ、あれだ。」
と思い至る。数年前に読んだ「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著)に、この「盗賊」達の様子が生き生きと(?)描写されている。流民とも呼ばれるらしいが、語りの名手は
「食わせろ」と言いながら人が渦のように流れる
と表現していた。

中国大陸は大きいが、耕作地に適した所は少なく、河川も黄河、揚子江の大河から灌漑工事をして水をひかないと満足に作物が出来にくい。
いつでも民は飢え易く、食べ物のある所へある所へと流れて、流れを止めてしまうと一帯で餓死してしまう。
可耕地はその10%くらいのもので、そんなに広くはないのである。大勢の人間がせまい耕地を細かく区切って耕作しているから、農業技術が発達しない。同一耕地で同一規模の生産をくり返す結果、地力は年々低下し、生産は逓減する。貧窮が普遍化し、農民は土地を捨てて流れ歩く閑民となり、盗賊が発生する。(p27)

著者は黒沢明監督の「七人の侍」の村を襲う無法者達を思い浮かべれば良いというが、とにかく、たちが悪くそれを取り締まる「官兵」はこれに輪を掛けて悪いらしい。盗賊も官兵も一皮むけば「食い詰め者」なので、結局は略奪目当てに行動する。

盗賊にとって農民は大事な「タカリ先」なのでしゃぶり尽くす事は無いが、官兵は根こそぎ略奪する。盗賊を何人捕まえたか生首でもって申請したらしく、ただの農民を捕まえて、首をはねてしれっと手柄にしてみたり、盗賊も官兵のその癖を知っているので、逃げる際に金品をいくらか置いていったり、女性を木にくくりつけて官兵に差し出したりと、とにかく読んでいて、ろくなものでは無い。

 かの国では「力(武)」は荒ぶる「しょうもない」存在であり、「知(文)」よりも下に見られていた事がよく判る。
荒くれ者どもの集団は、そのうち「知謀」を司る能力が必要になり、そこで活躍したのが「儒家」と呼ばれたゾロッとした儒服を着た「読書人」達である。おおよそ、活動的でない衣装を身にまとっているのも
「自分は粗暴な人間ではありません。」
とアピールする目的もあったと読んだ事がある。(長くて実用的で無い帽子を被るのが儒教の特徴!)

アクションが無くて残念
唐突に思い出したのが、映画「レッドクリフ」である。(1でも2でも良いのですが)
日本人俳優も大活躍のスペクタクル映画で、三国志の有名な「赤壁の戦い」がテーマだが、あれを観て何となく消化不良に思ったその訳がやっとわかった。
赤ん坊救出作戦は
国際的にも通用するイケメン俳優:金城武(諸葛亮孔明役)氏。軍略家の孔明が知謀をもって圧倒多数の曹操軍を打ち負かすわけだが、こう
「もっと孔明活躍すればいいのに!」
と思ってしまう。
派手なアクションは沢山あるのだが、それは別の俳優さん達が繰り広げる。。。その人物達はあまりキャラクターは強調されず「運動神経がいいんだな。」で終わってしまう。自分の考えや意志を表明する事が少なく、ただ「身体」を使っている印象が否めない。

要するに日本人にとって「文武両道」はヒーローの条件なのだ。
知力体力に優れたイケメンには、全編に渡って活躍してもらいたい!
「それが主役だ!」、、と刷り込まれてる。(ハリウッド映画でもそんな気が、、)

ところが、人徳は劉備、勇気は関羽、知略は孔明、、、と三国志ファンならお馴染みの完全分業が要は儒教国家という事なのだ。中国はいわゆる「文民統制」が効いた国家であると言える。


文民統制が鈍らせた危機意識
今回のお題本にはあまり言及されていなかったが、清朝末期の動乱期に欧米列強は中国を「カイコが蝕む」ように次々と都市の権益を取得して行った。この自国の独立性に対する意識の「鈍さ」もひとえに「文民統制であるが故」という意見がある。
読書塾でも
「中国は歴代『小さな政府』で、皇帝の権威と存在が守られる事に注力を注いで来た。領土を広げようという欲は殆ど無く(チンギスハンは例外)出来れば、「外から余計な民が入って来ないように」と防御する事に熱心だった。」
と語られた。前々回でも取り上げたが、「ここまでが自国」というくっきりとした境界線意識があるというよりも、皇帝が君臨する「都」が最も色の濃い中心点で、後はグラデーションのようにぼんやりと色が広がって行く、、そんな国家感だったのではないかと著者も語る。
日本の場合、曲がりなりにも「武人政治の国」(200年以上実質的な戦闘を体験していなくても)で、支配階級だった武士が「敵を力関係で捉えられる」事が出来たのだ。隣の清国がアヘン戦争の敗北によって、イギリスに領土を奪われた事を、自国のケースに置き換えて考えられる危機意識を持てた。(鹿児島純心女子大教授:犬塚孝明氏 さかのぼり日本史より)
 この時の印象で、その後の国際社会は中国という国の一面のみを理解したのかも知れない。もっとも、池田信夫氏曰く
「最近では、人民解放軍の幹部は海外留学したインテリ組が担っているので、伝統的文民統制がどこまで機能するか、やや疑問だ。」
となかなか、意味深長な意見を述べていた。


大味だけど面白い中国史
正直言えば、今回のお題本は、各章を読み進めると、段々飽きて来る。
というのも骨格が同じで、詳細(固有名詞)が違う話が繰り返される印象で物語として変化に乏しいからだ。
「大いなる繰り返し」
とでも言うべき型の類似性が、長い中国史に通底する特徴なのかも知れない。

敬愛する、司馬遼太郎は先に述べた「項羽と劉邦」以外に中国物を書いていない(「韃靼疾風録」があるが万里の長城の外の話なので、、、)同書は非常に面白く、これまで何気なく使って来た言葉の由来を知る絶好の娯楽書でもある。(「背水の陣」「四面楚歌」「函谷關(かんこくかん)→箱根八里の歌詞で有名な言葉」)
もっと読みたいと思ったのに、他に無いのを残念に思ったが、それも今回の「大盗賊」本で判った。。。パターンが同じで飽きてしまうのを避けたのだろう。


とんでもない喩えかも知れないが、「中華料理をずっと食べると何となく飽きる」の感覚と似てるかも。。。

最後に、偶然みつけた司馬遼太郎の講演録から含蓄ある言葉を引用して今週はおしまい。

中国の儒教体勢についてもう少し具体的に話しますと、中国人の場合、ほとんど文字がわからない人であっても、日本のいかなる儒者よりも儒教的な感じがします。
彼らは「信」ということを尊びます。裏切りません。
儒教における「信」とは、中国の固有の社会的な必要から生まれたようです。
「政府は恃む(たのむ)にあらず」
ということでしょう。何千年にもわたって恃みにならない政府を持ってきたため、恃むことができるのは同胞や親類、あるいは同郷の友人などでしかない。
これらすべて横の関係だけです。その関係をつないでいくモラルが「信」であり、これらは生存のために欠かせない。これが儒教というものなのです。
(「司馬遼太郎講演録1」より 1972年富山市公会堂 学制百年記念文化講演会)


、、、既に読んでいた本なのに(ガックリ)この端的に言い表した文章に脱帽。結局受取る教養が無いと、だだ漏れしてしまう訳である。



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