2012年6月24日日曜日

アゴラ読書塾Part2第10回「田中角栄の昭和」保阪正康著 〜戦後大衆の欲望が生んだ政治家〜


トレードマークのポーズ。戦後大衆が生んだ政治家。
アゴラ読書塾で初の「リアルタイムで知っていた人物」登場である。私が記憶している田中角栄は「ロッキード事件で捕まった政治家」で、母は「賄賂をもらった悪者だ。」とストレートに嫌悪していた。
子どもだったから「あの人は悪い人なんだな。」とラベリングして、それっきり考えた事も無い。
「あれ?」と思い直すきっかけは、去年、茂木健一氏がTwitterで「角栄」という連続ツイートを書いていたのを読んでからだ。
茂木氏は「角栄さんは、私たち日本人にとって、一つの「宿題」なのだ。」
今一度読み返すともっと理解で来そうな気がする。
と言っている。これをきっかけに「田中角栄封じられた資源戦略(山崎淳一郎著)」を去年読んだ。今回の保坂氏の著書と合わせて、角栄本は二冊目である。
どちらも「反田中」でも「角栄礼賛」でも無い、バランスの取れた内容で、あの時代の角栄を比較的リアルに描き、なぜ彼が登場したのか時代背景を考える良い材料だ。



オールリセットの焼け跡が生み出した政治家
「俺たちは絶対に国家に殺されない。死んでたまるか。」
田中角栄という人の本質をずっと掘り下げて行くと、きっとこの言葉に行き当たる。
保阪氏の序章を読んで、これまで理解出来なかった角栄という人の根っこにパッと光が当った感じがした。
そうなのだ、これが分からないと角栄は「単なる金に汚い土建屋のオヤジ」としか理解出来ない。この要の記述を冒頭に持って来る所が、保阪氏の老練さだ。

田中角栄は大正七年生まれ。最も戦争で「殺された」世代だ。最終学歴は小学校のまま、東京に出て働いていた所を、徴兵された。
その後の軍歴は「渡満→病気発症の為戦線離脱→除隊」となっているが、保坂氏は遠回しながらこの事に「疑惑」の目を向ける。ーー「陰で言い伝えられていた『軍隊』抜けの手の込んだ仮病」で難を逃れたのではないかと暗に示唆しているのだ。(若い山崎氏はもっと素直に、角栄は重い病気で生死の境を彷徨った挙げ句、運良く回復したとしている。)

角栄が所属した部隊は、後にノモンハン事件で派遣され、装備に勝るソ連軍と対峙して死傷率7割という壊滅的打撃を受けた。角栄はギリギリの所ですり抜け、生き延びたとも言える。これを「運が良かった」とせず「したたかに自分で仕向けた」と保阪氏は解釈する。
入隊前から既に世間の風に吹かれ、世の中の「本音と建前」を知り、女性経験も持った「権力は無いが生命力旺盛な男達」の代表が角栄だったのだ。

 この点、次回取り上げるの「ダイエー創始者の中内功(大正11年生まれ)」や「山本七平(大正10年生まれ)」世代はもっと痛々しい。学業の途中で強制的に軍隊に取られ、史上最悪の戦略無き杜撰な作戦で、大量に犠牲を強いられたからだ。
若さ故の「純真無垢」に国家が付け入ったとも言える。「逃げよう」という知恵も回らず、「死して護国の鬼になる」と信じ込まされた悔しさはいかばかりだろう。
戦後「自分達は騙された」と想うのはもっともだ。その強い想いが強烈なドライブとなって、爆発的なクリエイティビティを生んだのだ。

角栄がどこか「あっけらかん」と汚職をするのに比べ、次回の中内の印象は「どこまでも薄暗い洞穴」が続いている。それは、昭和という時代の二面性を端的に表しているのかも知れない。


定見無きベンチャー政治家
保阪氏は、田中角栄には「定見が無い」という。「親米派」でも無く、かと言って「左がかった思想家」でも無い。言うなれば、
直近の問題を、最速最短で解決するにはどうしたらいいのか。
、、と、これだけを考えていた政治家とも言える。
  • 金がそこにあるのならどんどん使えばいいじゃないか(郵政大臣で初入閣した時に郵便貯金という大きなお財布を発見!!これを使おう!)
  • ルールが無いなら作ればいいじゃないか(議員立法100本以上、この記録は未だ塗り替えられず!とにかく作る作る!)
  • 困った人がいるならば救済すればいいじゃないか。(目白の田中邸には陳情受付の特別スペースがあって凄い早さで処理されていた!)
「今太閤」ともてはやされた時代、このスピード感と民衆に分かり易い(すぐに自分達の益になる解を示してくれる)「生命力旺盛な男」は、巧みな人心掌握術を駆使して絶大な人気を誇ったそうだ。
「角栄が高度経済成長を潰した」 とは、「高度経済成長は復活出来る(増田悦佐著)」の見解だが、池田信夫氏は
「角栄がああやって都市に集中した富を地方に分配した結果、高度経済成長は止まってしまったが、都市のスラム化は防げた。急速な発達は激しい格差を生んで、都市にスラム街を抱えてしまいがちになる。東京は驚く程、世界の中でもスラム街が無い。」
という。確かに。。。これが物事を立体的に見るという事なのだろう。また同氏は「角栄は政治家のベンチャーだった。」とも言われた。
政治家の本流は、前々回の岸信介や福田赳夫、中曽根康弘(つまり官僚系)で、角栄はどうしても「傍流」の域から出られない。
傍流の悲しさで「金はある」「定見は無い」「何となく民衆の味方っぽい感じでちょっと左?」が特徴だが「肝心な情報を押さえる」という点で、本流に及ばなかった。そこを突かれて最後はロッキード事件にはまり込んでしまった、、、という解釈はさすが元NHK報道局ディスクの経歴を持つ池田氏の話は面白い。


資本主義は3%の無鉄砲で支えられている
池田氏は、角栄政権後半に起きたオイルショックは不運な巡り合わせだったという。
「角福戦争と言われて、辛くも角栄が首相になったが、順序が逆だったなら良かったかも知れない。福田赳夫はデフレ的抑制政策をするタイプで、角栄はその逆。オイルショックのような外的要因が襲いかかった時、角栄のインフレ政策が却って狂乱物価を招いてしまった。」
世界的に見ても、サッチャー、レーガンと財政再建を主とした抑制政策に舵を切った時代であり、日本はちぐはぐな事をしてしまった。
そこへ週刊文春の「立花隆レポート」が角栄の汚職疑惑をあばく形で掲載され、ロッキード事件が始まる。本書はロッキード事件にはあまりボリュームを割いてておらず、池田氏も
「汚職が良いとは言えないが、ではCIAから金をもらっていた岸はどうなのかとなる。それまで官邸記者クラブでは『公然の秘密』で、みな知っていたのを、無名のルポライターだった立花隆が、怖いもの知らずで書いてしまった。今なら「名誉毀損」で裁判で訴えられたら負けただろう。あれはノンフィクション・ルポの始まりで、その衝撃の強さに報道も加熱し、以後どうも『ロッキード事件の田中』という所に目が行ってしまいがちになる。もう少し視線を引いて、彼の存在の意味を考えてみるべきだろう。」
「資本主義は3%の無鉄砲で支えられている」とはミルトン・フリードマンの言葉だそうだ。角栄は「アニマル・スピリッツ」の塊のような人で、戦後の焼け野原にはこんなバイタリティーが必要だったと、池田氏は言う
「あー、うー」とあだ名された、かの大平正芳元首相は大変な読書家で有名だった。この大平と角栄が昵懇だったことを考えると、角栄にはどこか憎めない「人望」があったのだろう。本書にこんな印象的な一節がある
田中は、大平の話す内容は精緻であり、その論旨も明快なのに、なぜ人の心を打たないのだろう、といつも気にかかっていた。(中略)田中はその事を何度も大平に忠告したという。
「お前さんの話の内容を記録に残すと、誰もが感動するような重みがあることがわかる。しかし、なぜ同じ言葉で説得しても人が動かないのか。お前の喋りは眠たくなってしまう。まずは<間>をとるように気を使わなければだめだ。」
大平は、「だからお前にいつもごまかされてしまうのかな。」と苦笑したという。( p139)
保阪氏は「田中角栄のスピーチは文字起こしすると、殆ど内容を成さない。」と手厳しい。 角栄政権での最大の功績と言える、日中国交正常化の背景には、外務大臣だった大平の意向が大きく影響していた。この一見、水と油ほどに違いそうなキャラクターの二人が歩調を合わせた事も興味深い。角栄から帝王学を直伝された直系の小沢一郎氏とこんな所に「格の違い」が出るのかも知れない。
いろいろな点から考えて角栄は、大衆が望み、大衆が生んだ政治家だったんだと味わい深く認識している。

2012年6月17日日曜日

「歴史人口学で見た日本」速水融著 〜江戸時代の違う姿が見えて来る〜

新書で手頃な厚さ
今週は、アゴラ読書塾が変則開催なので、いつもの感想ブログはお休み。折角なので、少し前に読んだ印象深い本を簡単にご紹介。

数字から見た江戸時代の実態を探る
輿那覇先生の「中国化する日本」で、この「歴史人口学で見た日本」という著書を知った。他にも沢山の文献紹介があったが、これだけはどうしても読みたいと思って買ったのである。
統計学が日本に入って来たのは明治維新以降で、それまでは全国的にキチンと数を把握する為の調査は無かった。
だから、あくまで推定となるが「宗門改帳(そうもんあらためちょう)」という各地方村単位で行われた調査記録が、はからずも江戸時代の人口とその流動実態を浮き彫りにした、、というのが著者である速水氏の研究成果だ。

「宗門改め」とは豊臣秀吉に始まった「キリシタン禁令」を徳川幕府も継承した際に
「当家にはキリシタンはおりません。」
と届け出させる為に、決まった間隔で各戸の人数調査をした記録の事である。調査方法や記録の取り方は、各村のやり方に任されていたらしく、全国一律というものでは無いが、それでも保存状態の良い村ではかなりの年数に渡って、どれだけの人が生まれ、どこへ移動し、どうなったのか、、という事がつぶさに分かるらしい。
速水氏はヨーロッパ留学をした際に「教会に残る出生記録」を使って歴史学者達が過去の人口構成を推測しているという学問に触れ、日本の「宗門改帳」とを後に結びついたらしい。

エクセルもデジカメも無い時代、車に辛うじて詰めるマイクロフィルム撮影機を持ち運んで、資料が出たと聞いては収拾に走り、一点一点手書き作業で情報の整理/分類に費やした労力には感服する。
「少し早く生まれ過ぎたかな。」
と、現代の恵まれた統計ツールを見ると思うそうだ。


都市アリ地獄説
速水氏の研究で目を惹くのはこの学説だ。江戸期の大都市は農村で余った労働力を吸い込んで、使い捨ててしまうというのだ。
江戸中期である1721年〜1846年の125年の間、全国単位で見ると総人口に変化が無い。変化が無いから学者はあまり関心を持たないそうなのだが、速水氏は逆に注目したのである。
関東地方と関西地方の大都市を有する地域では、飢饉が無い年にも関わらず人口が減っている。
一方「宗門改帳」には各戸の人の出入りが記録され、出た人の理由やその後どうなったのかが推測出来ると言う。ある村の記録を例に取ると、周辺の大都市に出稼ぎに出た人の約30%が「奉公の終了理由→死亡」となっている。
つまり、地方村は放っておくと人口は徐々に上昇しはじめる。土地を中心とした「家制度」だと、沢山の子どもに土地を分け与えて行くとやがて先細ってしまう。次男、三男、女の子等は平均13〜14歳で奉公に出されていた。
一番立場の弱い小作人が最も多く輩出しているが、自作農/地主層からも奉公に出るケースが見受けられ、適宜全体の人数調整をしているというのだ。
この時代の都市は決して良い住環境とは言えず、劣悪な環境下で命をすり潰していた。
「江戸っ子は三代もたぬ。」
という諺を引用しているのが、印象的だ。輿那覇先生は
「姥捨て山ならぬ孫捨て都市だ。」
と説いて、家長直系ラインに乗った者以外は蹴落としてしまう姿に、現代のブラック企業しか就職先を見つけられない若者達の姿と重ね合わせておられる。


高い乳幼児死亡率
もう一つ印象深かったのは、非常に高い乳幼児死亡率だ。何となくそうだろうと思っていたが具体的な数字に驚いた。
記録が几帳面に残っている「奈良」「美濃」を例に取ると、年齢別の死亡率では、一歳未満が21%と突出して高く、他の年齢では平均5%前後にぐっと下がる。
しかもこの調査は「毎月行われていた」という貴重な特徴があり、少なくとも一ヶ月は生存した赤ちゃんの事をカウントしている事になる。
速水氏はもっと高い死亡率では無かったかと推測している。というのも、明治期に入って試験的に「人口調査」が導入された横浜市では最悪期だと一歳未満の死亡率が30%という記録もあり、恐らく江戸時代中期であればもっと一ヶ月未満で死亡してしまうケースが多かっただろうというのである。

「子どもが無事に成長できるか。」
は非常に不確実な懸案事項で、跡取りが絶える事を恐れる「家制度」ではリスク回避の為に子どもを産み続け、あぶれてしまうと「外に出す」を繰り返していた事が分かる。

ここ数ヶ月、様々な人物伝を読んで来たが、貧富に関わらず明治期までは、子どもの生存率が低いなぁと感じていた。
山県有朋は何人も正妻との間に子どもをもうけながら成人したのは娘一人だし、石原莞爾の兄弟は次々夭折して成人したのは彼を含めて3人だけ、東条英機も彼の上に夭折した兄が二人も居た。

生まれた子がほぼ成長出来るのは、大正期に入ってから。。。これは工業化に伴う住環境や食糧の質が向上したからだ、、という説を読んだ事がある。
医学の進歩と言われるが、劇的に変わったのは「感染症」に対する抗生剤の発見程度で、圧倒的に影響を及ぼしたのは免疫力を向上させる「食糧」と「住環境の保温」だそうだ。

少子化が問題視されて久しいが、歴史を長い尺で眺めてみると
「この意味は何なのか?」
と自問したくなる。
三児の母であるからこそ、子育ての嬉しさと辛さが少しは分かっているつもりで、余計に考え込んでしまった。とは言え最後に無視出来ない図表をアップして、今回は終了。
このグラフが現実なのだから、システムを変更しないと大変な事になるのは自明ですね。
「日本の人口ピラミッドは『釣り鐘型』かな。」と呑気な事を言ったら、当時中1の長女に「お母さん、日本の人口はもう『壷型』だよ。」と諭される。こんな突き出た庇を細い土台では支えられませんね。

2012年6月10日日曜日

アゴラ読書塾Part2第9回「悪と徳と 岸信介と未完の日本」福田和也著 〜悪徳輝く大政治家〜

巣鴨プリズンから釈放され首相まで昇りつめる
 石原莞爾に続いて福田和也氏の著作は読書塾で二度目である。
「この本はベストでは無い。」
という池田信夫氏の但し書き付きであるが、前回の「地ひらく」よりは文体がこなれて読み易い。

岸信介を中心に激動の昭和史を俯瞰出来るので、分けて考えがちな「戦前/戦後」を一つの地続きで捉えるにはうってつけである。
石原莞爾/東条英機とほぼ同時代を生きながら終戦で潰されず、戦後にまで名を馳せた人物はまさに「悪徳輝く」である。吉田茂では無く、岸信介を題材に選んだ理由を
この岸が戦後レジュームを作り、今でもその影響が日本に残っているからだ。」
と池田信夫氏は語る。


岸信介という悪党
赤と黒をぶつけた印象的な装丁
偶然にも私は去年、御殿場の「旧岸邸」を訪ねた事がある。仕事で同僚数人と訪れたのだが「岸信介」が誰なのか全員ピンと来ていないようだった。(多分全く知らないって輩も数名含まれていたと思う。)
私も「昔の日本の首相だったな。」レベルの認識で、正直どんな人物で何をした人なのか、しっかり理解していなかった。
こんな事を告白すると、団塊の世代は嘆くだろう。でも、悲しいかな戦後教育の賜物はこんな程度なのだ。
記憶にある首相は、大平正芳あたりからで、下手をすれば最近の子どもは「首相は毎年交代する」と思っているかも知れない。(いや、そもそも首相って誰?レベルかも(^_^;)

政治に対して「無関心」と言われて久しいが、吉田茂や岸信介の時代は「政治が熱かった」事がよく分かる。「岸って誰?」な方の為にざっとアウトラインを書き出してみる。
  • 一級のエリートなのに軍人を選ばず、官僚となっても「大蔵省/内務省」の表街道ではなく、三流官庁とされた「農商務省」を選ぶ。
  • 満州の「二キ三スケ(東条英機/星野直樹/鮎川義介/松岡洋右/岸信介」の1人に数えられた実力者。
  • 軍需省創設の立役者
  • サイパン陥落後、東条内閣にさっさと見切りを付けて反旗をひるがえす。(後のA級戦犯不起訴にこれが影響した?)
  • 吉田茂内閣倒閣後、上世代の有力者の死が重なって首相の座に着く。
  • 「安保改正反対」の学生運動で批判の的となる。
池田信夫氏が、この著作を評価しない点は、岸とCIAとの関係に全く触れていないからだと言う。情報公開が進んでいる米国ではCIAの記録が公開されているらしく(誰でも閲覧可能な表層レイヤーでなく、もう少し限定された範囲での公開)そこに岸や、弟の佐藤栄作らの名前が出ているという。(池田信夫blog:CIA秘録

自国の情報を売る売国奴が首相であるとは由々しき事態であるが、岸が「大物」と言えるのは心底「国粋主義」であり、石原莞爾や北一輝に通底する「強い目的意識の為に手段を選ばない剛直さ」にあると言える。反米思想でありながら、状況によってはどんな手段でも(親米と取られる行動でも)取る、色々な意味で「クレバー」な人物で「妖怪」とはよく言ったものである。
「岸を総括して言えば『悪党』で『信念の面では国にとって正しい事をし』『経済は下手くそ』ですね。」(by池田信夫)
と、いつもながらの鋭い分析である。


60年安保闘争
御殿場の「旧岸邸」の庭。非常に手入れが行き届いてる。
本書の冒頭に「安保闘争」の場面が描かれている。興奮した学生達が国会議事堂構内に雪崩れ込み「安保改正が自然成立」するのを阻止しようと警官隊と衝突する。岸は泰然と首相官邸で過ごしながら、その成立を待つーー。その様子が「もっとも岸らしい」と著者は考える。

現在では、この「安保改正」はサンフランシスコ条約締結時(1951年)に同時に交わされた「安全保障条約」よりも日本にとって不平等でない内容へ改正するものであるという解釈で、学生運動は条約改正の内容を冷静に読み込んだ論争(、、を越えてもはや闘争ですが)では無かったと聞く。
「学生運動って、アメリカを排除して日本は独立するんだって学生達が決起したもの?」
程度の認識だった私は、苦笑したい気分だ。
「綺麗事だけじゃ世の中治まらんし、事態は前に進まない。」
と岸は思っていたのだろう。その後、新条約批准手続きを終えた後、岸内閣は総辞職。この間、暴漢に襲われて、岸は重症を負うのだが、まだまだ戦争の記憶が生々しく、世相の空気が可燃性を帯びた危険なものだったと、認識を新たにする。

因に、偶然訪れた先の「岸邸」では、特別展示として「吉田茂と岸信夫の往復書簡」が展示されていた。
「もともと吉田首相は書簡戦術が得意であった。微妙な局面に直面すると、読み方によってはどうにでもとれるような、思わせぶりの文章で相手を撹乱し、何とか切り抜けてきたことがしばしばであった。鳩山氏も重光氏も吉田氏のこの手に引っ掛かったことは一度や二度でなかった。巻き紙に達筆で書かれてあるので、判読できない箇所も時々あった。豊富な漢籍の素養に加え、長年の外交官生活による習性があのような文章をかかせるのかもしれない。『岸信介回想録』(本文p342)
という一文があって「あ、あの展示の手紙か。」と今頃合点がいった。
書簡はこの「安保改正」に関する内容のもので、解説文も展示されていたのに、ちらっと眺めただけで流してしまった。今だったら、もっと興味深く読む事が出来たろうに、惜しい事をした。
確かに、吉田茂の手紙は本当に達筆で、対する岸の手紙もこれまた達筆。。。
「この時代のインテリの素養は、この程度が当たり前とされたんですね。」
説明について下さった方からこう聞いた。「大人の政治家」が居たんだなぁ、、などと言ったら、はしゃぎ過ぎだろうか。


開発独裁は「止められない麻薬」
池田氏の言う「岸は経済は下手くそ。」の経済政策であるが、彼は満州時代から「官主導型」で政府が産業を保護育成するという方針である。日本産業の鮎川義介を口説き落として、満州に法人を発足させたあたりが、その絶頂かも知れない。池田氏は
「開発独裁はある時期までは必要で効果的なんです。問題は、それを『卒業出来ない』ってところ!」
なるほど。。国が弱く産業の揺籃期には、弱小企業があまたあっても仕方無いので、官が牽引をした方が良さそう、、に思えるが、世界的な産業構造が変わり、競争にさらされながら素早く対応を組み替えなければ生き残れない時代に、、
「官が指導して上手くいった産業政策なんて皆無に等しいんです。唯一の成功例が『超LSI技術研究組合』のプロジェクトくらいですね。」
と語る。この部分の考察は、池田信夫氏による「よみがえる産業政策の亡霊」(PDF形式でネット上に載ってます。)が詳しくとても参考になる。
 かの、官営富岡製糸工場も、民間に払い下げた後に利益を生むようになったそうだから、ある程度力を付けて来たら「邪魔をしない(規制緩和)」が最も効果的な「官」のあるべき姿なのだが、それが出来れば苦労は無い。。
 因に、前述した鮎川は芝浦製作所(現:東芝)で一職工として鋳物を学び、鋳物工場を起こしたベンチャー経営者である。不勉強で知らなかったのだが、この「日本産業」が現在の、日産自動車や日立製作所、ジャパンエナジーなどの前身母体となる企業だったとは恐れ入る。

「開発独裁」と言えば中国などは上手く行っているんじゃないかと思いがちであるが、実情は彼の国でも「ベンチャー系」企業の方が成長しているそうだ。古くから(それこそ宗代から「経済の自由はあるけど、言論の自由は無い」中国は商売にかけては世界一賢い民族とも言え、現在の元気の良さは当然の結果と言える。(このくだりの話はとても面白かったので、また別の機会に!)


岸邸が伝える「家主の信条」
最後に、御殿場の岸邸を訪れた時の写真を紹介したい。本書の中に、かつて岸の部下だった武藤富男が岸を評したこんな一節がある。
僕は何事についても財政のほうから考えるように頭が仕組まれている。これは大蔵省で働いてきたためであろう。それに比べると商工省出身の岸さんは『物』についての知識が実に豊かである。例えば、自動車の話になると材料や、機械や、部品や、メーカーや、原価なども、たなごころをさすように語る。ここにある家具についても、産地、製作費、材料、原価、売値など小さなことまで正確に知っているには驚く。(『私と満州国』武藤富雄 本文p176)
御殿場にある「旧岸邸」今は御殿場市が管理している。

この証言を岸邸は存分に語っている。派手な建築(例えば鳩山邸とか)では無いが質実剛健で「パブリック・スペース」と「プライベート・スペース」にキッチリ分かれている所が、公職から退いてなお、政府要人が何時、何人訪ねて来ても応対出来るよう、設計されたのだと言う。(設計は吉田五十八:東山岸邸サイト

元岸邸の敷地だった所に「とらや工房」が隣接。
一番驚いたのが、プライベートスペースの「床の間のある和室」でここの畳の縁は通常の物よりもやけに「細い」
説明員の方曰く「周囲の障子の枠の幅と畳の幅がきっちり合うよう作られた特注品で、障子を閉めると畳の縁と障子の枠がピタッと同じ幅になってつながる。」そうである。
ひやぁ、、恐れ入りました。施主と設計者の気持ちが合わさった合作なのだろう。

車回しからの庭の眺め!
まだ未読だが、御厨貴著「権力の館を歩く」にもこの岸邸が取り上げられているらしいので、是非読んでみたいと思う。
昭和生まれの癖に、昭和の事を殆ど知らないんだなぁと、岸信介を調べて改めて思う。

畳の縁と障子の枠が同じ幅の和室!!
パブリック・スペースの応接間

12人掛けのダイニング


当時のままの照明器具。全て特注品。

常時お手伝いさんが3名で回していたという厨房。今でも使えそう。 

2012年6月3日日曜日

アゴラ読書塾Part2第8回「大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清」松本崇著 〜近代日 本屈指の財政家〜

笑顔が凄く素敵な写真があったのでそこから作画。
高橋是清の事はずっと気になっていた。「坂の上の雲」では、戦時公債の募集に奔走し、「日本のケインズ」と称されている人物らしいからだ。
私は本当に経済音痴で、基本的な事は理解出来ても「円の切り上げ」とか「切り下げ」とか「円安/円高」と言われても咄嗟にどっちがどうと峻別出来ない。小さい子が「右」と「左」がすぐに覚えられないのと同じで、ゆっくり考えると判るのだが、永遠に自信の無いジャンルである。
だから、経済に強いというのは、それだけで偉いと思ってしまうし、ここが見えている人は「リアリスト」だと思う。先日の読書塾でも、池田信夫氏は
「高橋是清はリアリストだった。」
と断言されていた。今回のエントリーは、分からない人間が身の丈で、高橋是清と近代の財政史を噛み砕いてみようと思う。


地生えの財政家
お題本である「大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清」はやや看板に偽りありで、内容は殆ど「近代経済史」である。(高橋是清の記述は全体の三分の一)
財務省の現役官僚が書いたものなので、よく調べてあって非常に勉強になるが、惜しい事に構成が時系列に組んでおらず、内容が行ったり来たりで、全体の流れを掴みにくい。専門雑誌への連載記事をまとめたので、こうなってしまったのだろう。高橋是清の来歴は全く書かれていないので、少し調べる事にした。

幕末の嘉永7年(1854)幕府の御用絵師、川村庄衛門と女中キンとの間に庶子として生まれたのが是清である。「そんな時代だった。」と言えばそれまでであるが、キンが身重になったのを知った庄衛門の妻はキンを気の毒に思い、キンの叔母の家へ彼女を預け、時々見舞ったりして、手厚く面倒を見たと言う。(偉いなぁ)
無事、是清が誕生した後に、金二百両と衣服を贈って手切れにした。その後、赤ん坊のうちに仙台藩下級藩士「高橋家」に里子に出され、そこで実子として可愛がられて育つ。
十四歳で藩からアメリカ留学を命ぜられたのだから、かなり優秀だったのだろう。渡航費用を横領されたり、行った先のアメリカのホストファミリーに奴隷として売り飛ばされたり、普通に聞いたら、波瀾万丈で苦労の連続と思えるのに、その苦境を上手にバネとする、しなやかな楽天家の資質が垣間見える。
帰国後、大学へ入学したつもりが「教官三等手伝い」という職員扱いで、わずか16歳で給料取りになった。以後、是清には学歴というものが無く、全て独学で学んでいる。後年、蔵相として望んだ予算閣議で、世界地図を持ち込みながら、対ソ戦を標榜する陸軍に向って
「国防は攻め込まれないように守るだけで十分なのだ、そもそも幼い時から特殊な教育を叩き込まれた(陸軍幼年学校の事を指す)軍人は常識が無い。その常識が無い人間が嫡流として幹部となって、政治にまで嘴を入れるというのは言語道断、国家の災いだ。」
と公然と面罵するのだが、それもこれも、土煙と汗と血をかいくぐりながら、日本と世界を見続けて来た明治人の「揺るぎ無い経験に基づいた自信」と言えるだろう。
この歯に衣着せぬ物言いは、庶民に人気が高かったが、陸軍の恨みは買った。二・二六事件で襲撃目標にされた要因の一つとも考えられる。


地租改正を遠因とする地方の疲弊
本書は、明治維新からの経済史を紐解いていて、いくつかキーワードが浮かんで来る。その一つに「地租改正」がある。
そもそも、江戸期は「農本経済」で米を主流として、各藩がそれぞれの才覚で経済を回していた。念のため記しておくと、徳川幕府は「各藩の代表」で一番大きな藩というだけ。国家を運営しているというものでは無い。だから国家予算などは無かったし、後を継いだ明治政府は大急ぎで「国家予算」的なものを掻き集める必要があった。(それまでは維新に参加した各藩からの支弁)
廃藩置県でまず土地を国家が吸い上げ、各藩が抱えていた士族というサラリーマンを、一気に一時金を渡してリストラしてしまう(秩禄処分)。極めつけは、農作物(米)に頼っていては安定した税収が望めないので、耕作地を改めて検地し、収穫高に応じて一律3%の金額を「現金」で納めるよう定めた「地租改正」を断行する。
この時、そもそも現金を持つような暮らしをして居なかった自作農は、耕作地の権利(地券)を地主に渡して小作人になり、地主に物納(米)する事で代わりに税金を払ってもらう事例が多く発生した。納税の義務は土地に権利を持つものが担ったが、米は毎年価格が変動するので、物納を受けている地主には「実質減税」になってその利益が直接舞い込んで来る。
一方小作人は、殆どその恩恵に預かれず、地主と小作人の貧富の格差は広がるばかりだった。ここに働かずして暴利を得る「不在地主」が登場する。
著者の松元氏は、夏目漱石の小説に登場する「高等遊民」はこの「不在地主」だったろうと推測している。前回、夏目漱石のレポートをした時の疑問「(小説『こころ』に登場する)先生は、働いている風が無いのに、一体どうやって生計を立てていたのか。」の謎がやっと解けた。この不在地主達は、やがて都市生活を楽しんだり、豊富な財力をバックに事業を起こしたりする。
この「地主」は戦後GHQが農地改革をするまで続き、不利な立場に追い込まれた「小作人」達は、大正期には「都市部の工業化の労働力」として駆り出され、日露戦争や第一次大戦後に増大した行政需要(一番増えたのが教育費)の財源のしわ寄せをもろに受けた。

国は「やりなさい」と地方に言っておきながら、その財源を手当する余裕が無く(軍事費も増えていたので)各地方は地方税として住民から徴収するよりほか無い。
この当時、地方財政の自主財源比率は高く、実に四割五分が町村税として住民から徴収していた。その事を踏まえて、是清は
「(中略)その負担は町村自ら町村会議員達が、自分達の出すべき税を求めておいて、さうして重くて困る困るという。(中略)困るからどうにかしてくれ、金をくれと言って泣きついて来るのは、元来無理は話なんじゃ。」
という持論だった。でも、地方に言わせれば
「国がやれと言った事では無いか。」
となり、この事だけ見て「高橋是清は農民の敵」とまで言われてしまう。
一方、国にしてみれば、先の「不在地主」達が実質減税になっている事からも、
「国は税を取っていないんだから、地方にはその力があるよね。」
と言う理屈になる。著者の松元氏はさすが、主計局の人でこの双方対立している状況をこのように説く。
その事情はミクロ・レベルで個々の自作農や地主の担税力を高めるものではあっても、マクロ・レベルで見た場合の農村の担税力を高めるものではなかった。第一次大戦を契機として我が国が、製造業を中心に約三倍もの経済成長を実現したことは、実は農村部の相対的な経済力が三分の一への縮小したことを意味していた。都市部の担税力が大きく伸びるなかで農村部のマクロ・レベルでの担税力は縮小していたのである。(p211)
二・二六事件を起こした青年将校達は、農村の疲弊は国が何も手を打たないからだと思っていた。少し視線を引くと、もっと違う関係があるのだが、ここまで深く理解させるのは難しい。


金本位制と昭和恐慌
さて、本書の最も重要と思えるもう一つのキーワードが「金本位制」である。現在の変動相場制の常識から考えると、なかなか理解しずらいが、大雑把な言い方をすれば
その国の保有している金の量に応じてお金を発行する。金は地球上に限りある物だから世界共通通貨として使える。(、、、と思う)
という考え方で、近代西洋諸国では「金本位制」が主流だった。
日本では、江戸期に「江戸の金使い、大阪の銀使い」として金銀両方混在した流通となっており、幕末開国時にはこれが逆手に取られて、大量に金が国外に流出してしまう。

その後、松方蔵相によって明治30年「金本位制」に参加するが、この時は円滑に行われた。(国内では反対もあったがそれを押し切って断行)
この背景には、当時横浜正金銀行本店支配人だった高橋是清が「建白書」として新平価(通貨比率)で導入する事を薦め、それが採用された事情がある。(一円=1500mgと定められていた所を、一円=750mgに変更して実行)このお陰で、金の流出という不測の事態は避けられた。この事からも分かるように、高橋是清は金本位制には推進の立場を取っている。(地味だが、実に愉快な時期だったという意の述懐を自伝に残している。)

時代は下って、昭和初期の第一次大戦後、それまで各国が「金本位制」から一時離脱していたのが、順次解禁となり解禁していないのは日本のみとなった。内外から「金解禁は当然」と受け止める向きもあり、当時の浜口雄幸首相(ライオン宰相と愛称される)は
一時的には苦しくなるが、金解禁は経済正常化には必要な事であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造が改革される。
と強く考え、金解禁を断行してしまう。今日これは最悪の経済施策とされている。
第一次大戦中は特需に湧いて、日本国内はバブル景気だった。これが大戦終戦と共に弾け、深刻な不況に見舞われていた最中だったからだ。
金解禁に伴って正貨流出を防ぐ為に、緊縮財政が取られ国内はますますデフレ不況へと陥ってしまう。
濱口首相が凶弾に倒れ、続く若槻内閣も瓦解した後、後継の田中義一首相は、当時引退していた高橋是清を三顧の礼で蔵相に迎える。

若槻内閣が瓦解した理由は、当時の片山蔵相が、予算委員会で
「東京渡辺銀行が支払い停止になってしまった。」
と失言した事に端を発した「昭和金融恐慌」の始まりが原因だった。(実際はまだ支払い停止になっておらず、次官が渡したメモの情報が錯綜していたらしい。)
ショートリリーフとして蔵相に着いた是清の危機対応は、まさに「電光石火」だった。
就任直後に全銀行を二日間の自主休業にし、緊急勅令で三週間のモラトリアム(支払猶予令)を敷いた、その間に片面だけ刷った札束を用意し、自主休業明けの二日後には、各銀行の窓口にそれを積んで、預金者を安心させ、危機を乗り切ったという。

読書会で、池田信夫氏は
「とにかく、一番怖いのは取り付け騒ぎがあって銀行が潰れる事である。これが一番まずい。」
と言う。 その点から考えても、老いたりとは言え、高橋是清は最もクリティカルな所がよく分かっているのだと実感する。

その後、再び犬飼政権で蔵相に請われた際に、金解禁を停止して「金とのリンクを切り」ったり、次の斎藤内閣の時の「時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)」と呼ばれる、今で言う「地方景気対策の為の公共事業」も期限付きで導入(3年で打ち切り)するなど、必要とあらば、臨機応変に施策を断行するが、基本的には
財政は健全であらねばならぬ。地方は自活出来るよう努力しなければならないし、野方図に借金を重ねて軍備を拡張するのは言語道断である。
という考えの人だとよく判る。世界最速でデフレから脱却させた人物(リフレ政策の人)と言われがちだが、実情は池田氏も言うように、決して望ましいと思って行っている訳でない。
その行為(国債は日銀が引き受ければいいんだとか)だけ見て、拙速に事を考えると、この当時の教訓を見誤ってしまう。


最後の明治人
八十を過ぎて政界に身をさらす是清に、人は
「もうそのお歳なのだから、断られたらどうか。」
とすすめたらしい。彼は
「自分は死ぬつもりだ。」
と言ったそうだから、まさに身体を張って最後まで、財政の健全性を守ろうとした人物である。
老人に向って銃弾七発を浴びせ、即死した所にさらに斬り付けた反乱将校達は、自分達のした事の本当の意味を理解したのだろうか。
知ろうとしない、理解しようとしない事は時に恐ろしい結果を招くと、この読書会を通じて学んでいる。