2012年2月12日日曜日

アゴラ読書塾第6回「神も仏も大好きな日本人」島田裕巳著

一昨日のアゴラ読書塾は「神も仏も大好きな日本人」の著者島田裕巳さんがゲストだった。今回は池田先生が
「まぁ、読まなくてもいいかも知れません。」
とおっしゃるのに甘え、特に読まないで臨んでしまったのだが、、やっぱり著書は読んでおいた方が良かったかも。。そのうち読んでキチンと感想をアップしたいと思う。

という訳で、今回は島田先生が、池田さんと対話していた中で面白かった語録を中心に感想を述べたいと思う。理路整然と沢山の事例や知識をバックに述懐される池田先生に比べ、島田さんは「ポン!」と印象的な発言をなさる方。同じ年のお二人は、いい意味で中和し合って非常に印象的でした。

「日本人は無常観の民族なんですよ。 」
池田先生は、常日頃
「このままでは、日本は立ち行かない!これではいかん!」
と熱い思いをCoolに表現しておられますが、島田さんは正反対。
同氏は、宗教を学問している方なので「熱く思い込みにたぎった空気」の「いなし方」を知っておられるなぁ、、というのが、この一言に現れています。
「幸福の科学」とか「ヤマギシ会」とか、何となくお付き合いするには、ちょっとシンドソウダナぁという所とも、対談したり直接お話をしたり、、。
そこで、
「宗教を研究しているのに、何の宗教も信じていないなんてけしからん!」
と、相手にヒートアップされる事がままあるそうです。

「なぜ、宗教を研究するのに、何か宗教を信じていないといけないの?」

と島田氏は疑問を呈します。この「常に疑問に思う。」姿勢はアゴラ読書会でも垣間見られ、そのチョイ、チョイっと水を刺す感じが「上手いな」と感じました。
言うなれば「うどんを茹でる時の差し水」程度。バシャーっと大量に水を掛けてびちょびちょに鎮火させるという手合いでは無く、上手に沸き過ぎを押さえる感じが、場の空気を活性化させたなと思います。

話題としては、ここまで積上った借金どうするよ?経済学者は一様に
「破綻ははっきり目に見えているのに、政治家は選挙で負けるのが怖いから問題を先送りにしている、、バカである。」
が、主張な訳ですが
「まあね、、日本人は無常観の民族ですからね。いい時だけ楽しんだらいいんですよ。年間の死亡者も少しづつ増えて来てるし、こんだけ物に溢れた国は他に無いですよ。」
と島田氏。
会場思わず笑いが沸きました。日本人の特性を的確に言い得て妙ですね。
この「どうにかなるやぁ。」と思っているのも日本人だし、妙に細かい事が気になり、左右の人を気にするのも日本人である。。と島田氏は言いたかったようです。


「無縁社会って。。あれはNHK支局の人とか朝日新聞の記者さんとかが、無縁社会に入っちゃった人なんですよ。」
池田先生も
「まぁねぇ、、地方の支局長クラスみ〜んな単身赴任族なんですよ。」
と絶妙な相づち。ハッハッハ。妙にこの言葉に共感してしまう。
島田さんの住む世田谷は「地域のつながり」が強くお祭りだとか何だとか、妙にいろいろあって「無縁社会」と言われてもピンと来ないんだそうだ。
、、私もそうかも、、と考える。

例えば、昨日は土曜日で休日だったけど、終日中学校のPTA広報紙のレイアウト作業に追われました。(素人の集まりだから原稿整理が下手くそで、修正に次ぐ修正で目も当てられない惨状)
夫と言えば、息子のサッカー部の審判に行ったり、今日もサッカー部の総会で半日潰し、今は、息子の友達(これもサッカー部)が二階に遊びに来ていて、大はしゃぎでゲームをします。

これってドップリと「有縁社会」に漬かり込んでいる証拠で、表面的には「無縁社会」とは無縁。。なわけです。
でも、、と考る。(恐らく島田さんも思われるだろう)有縁社会は絶対善で、無縁社会は絶対悪と考えるのは、早計過ぎる。
有縁には延々と続く「うっとおしさ」があって、周期的に「あ〜〜もうこんなとこヤダ!」と人々に思わせる「閉塞感」とワンセットである。(私なんて年中思ってます。ああ!羽があったら飛んで行きたい)
それでも、なぜここに居続けるのか。個人的な事を言えば、この有縁社会が無ければ、とても子育てしながら仕事が続けられないからで、面倒な頼まれ事(老父が趣味で行う歴史講演会のプレゼン資料作りとか)も普段、突発的に何か起きた時に
「仕事なの、お願い!」
と傍若無人に子どもの面倒を押し付けているその迷惑を、返せる時にご恩で返さなければならない、、という強いマインドセットに支配されているわけです。(地域の評判を落さないようにしないと、回り回ってどこかで囁かれるからなぁ、、とかね)

だから「いいとこ取り」で美味しい部分だけ得ようとすると「集団の息苦しさ」に耐えている層の不興を買います。
もし「我慢の層」がみんな我慢しなくなると、集団は空中分解するから「いいとこ取り」は叩かれる。この叩くを、だれか一人のリーダーが意図的にやるわけでは無く、全員が空気を読んで行う所に日本的なものを凄く感じるわけです。(長期的関係ですね)

そのうちこのアゴラ読書塾でも取り上げれられるかもしれないけれど
「無縁・苦界・楽」網野善彦著
は、縁切り寺とか、地域とは切り離された集団の記録を延々と語っている書物で(あまり面白く無いですけど)それによれば、「無縁の集団」は決して不利な意味合いのものでは無く、時にその自由さを最大限に使った形跡があるようで、なかなか興味深いです。

「政治なんてのはしょせん『まつりごと』なんです。小泉さんはきっと海老像の真似をしたに違いないですよ!」
一同、爆笑。確かに大和言葉では政治の事を「まつりごと」と言う。
小泉元首相は本当に舞台好きで、首相になる前(多分厚生労働大臣だった頃)内閣が総辞職してしまったので、大臣室を引き払うべくみんなが支度している中、早々に荷物を引き払って
「これからオペラを観に行く。」
とサバサバした様子で、どこかの新聞記者に語ったと言う。
「小泉劇場」と言われたあの「記事にしやすい」名文句は、日頃の趣味も関係しているのでしょう。
ここで、昨日観た大河ドラマ「平清盛」のワンシーンを思い出しました。
清盛の父、忠盛(ただもり)が蔑まされた武士でありながら、昇殿が許される身分となって、初めて内裏の宴に招かれた時、、。客人であるはずの忠盛に「舞を舞え」と藤原摂関家当主が命じ、その屈辱を甘んじて受ける忠盛。わざと楽師にリズムを外させ、それで調子を少し外した忠盛を周囲の貴族達が、酒を浴びせかけて嘲笑する。末席にいた清盛が勢い余って飛び出そうとするのを、脇に居る同僚の義清(後の西行:藤木直人)が
「これは、まつりごとだ。そなたの父もそれは承知の上だ。」
と押しとどめる。
くぅ〜カッコイイですねぇ。。
じゃなくって、ああそうかもな、と島田先生の言葉を思い出しました。
日本の「まつりごと」はいつもこんな感じで、新参者をイジメ、排除しよう、排除しようとして来た事の連続なのです。
恐らく、永田町の予算委員会会場と、御所の昇殿と、場所が違うだけでやって来た事は「同じ」なんじゃないのぉ。と問いたくなりましたね。

何だか今回は脈略無く、肩に力が入っていないエントリーになってしまったが、改めて島田さんの本を読んでみようと思います。


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