2012年10月14日日曜日

街道をゆく「赤坂散歩」司馬遼太郎著

気が付いたら一ヶ月以上も更新滞り。。。夏後半から秋にかけて、ちょっと読書ペースを落してお休みしてました。。週1回更新は難しいものの、ボチボチこれからも続けます。今日は備忘録的に簡単なエントリー。

ソバと穴(街道をゆく「赤坂散歩」より)
以前、このブログに「高橋是清」の事を書く為に「赤坂散歩」の一部が読みたくて抜き読みしてたのを、今回キチンと通読。
東京赤坂を「溜池」を中心に周囲の坂を登るように描写する本編は洒脱で面白い。特にエッセイ後半の「ソバと穴」は微笑んでしまった。
穴掘りは人にカタルシスをおこさせ、ソバは人を狂わせるものらしい。落語にもいくつかソバを仲立ちにした物狂いの滑稽談があるが、ソバは病みつきの通をつくるだけでなく、研究者までつくる。物狂いとか数寄(すき)こそ文化というものなのである。ウドンにはざんねんながら、そんな鬼気がない。
司馬さんは「日本は土工の国だ」という。戦時中戦車隊に居た司馬さんは、脆弱な自分達の戦車を米国のM24戦車に対抗する為に、作戦本部が考えた「穴掘り」作戦を例にとりながら「穴掘りは成就すると哄笑したくなる程にいい気分なのだ。」という。

私どもが掘ったふしぎな穴は、みずから戦車くるみそこにもぐりこんで、土をもって装甲の薄さを補うというものだった。
いったいそんなものが役にたつのかどうかは知らないし、そんなことをやった国はない。
あらかじめ予定戦場と思われる原っぱに、自分たちの戦車がもぐりこむ穴を掘っておくのである。その穴に各車ごと進入し、砲塔だけ地上に露出させて敵戦車を射つ。そのあとギアをバックに入れて猛烈な勢いで後進して穴から出、つぎの穴にむかって躍進する。
机上の空論もいいとこだが、これ以外、米国のM24に対抗する方法がなかったのだろう。(中略)
そういう穴を、栃木県の不毛の台地にいくつも掘った。大体、その台地に敵が来てくれるかどうかもわからないというあいまいな根拠に立った案だから、そのうち沙汰やみになった。私の小隊だけでも五つか六つ掘ったような記憶がある。
ともかくも、掘り上げてあげてみると、哄笑したくなるようにいい気持ちなのである。輪郭のくっきりとした成就感で、働いたぞという感じでもあり、小説が一編出来上がったときの感じなど、とてもおよばない。

おそらく私どもの祖先の弥生人などは、穴ばかり掘っていたはずである(中略)水田農業は軽度の土木をともなう。かれら弥生人は、溝を掘って排水溝を作ったり、灌漑用の池をおおぜいで掘ったりした。いざ掘り上げたときは、村じゅう池のふちに集まって大笑いしたにちがいなく、そんな感覚が、私どもに遺伝しているのかもしれない。

穴を掘る事をこんな風に考えた事は無かったし、実際苦労して大きな穴を掘った事も無いから、この文章を読んで新鮮な驚きを感じた。司馬さんの文章にはいつもどこかに身体感覚を通した「リアリティ」がある。
穴を掘るから始まって、話は「カッポレ」へと移る。江戸弁の「母音を短く、子音を強く発する」特徴を「掻(か)っ」という言葉を頭に付ける事を例を挙げている、、
  • 耳を掻っぽじって聞きやがれ
  • 飯を掻っ食らう
  • スリが財布を掻っさらう
  • 掻っ飛ばせ〜!(今や標準の日本語で大阪の球団もはやし詞に使ってる)
関東育ちなので「かったるい」なぞは普通に使う言葉かと思っていたけれど、これも江戸弁の特徴らしい。ついでを言うと、男の子達が上に挙げた言葉を使うのをちょっぴり羨ましかったりもした。「行儀の悪い言葉使い」とされ(実際に職人や人夫の間で使われた)女性が使うと「ギョッ」とされてしまうから、普段は使わないけれど、相当頭に来た時などは思わず使いたくなる。

この「掻っ」を頭につけて「掘れ」としたのが「カッポレ」で、大勢が勢いをつけてテンポ良く、渫え(さらえ)仕事をする時に「さあ掘れ、さあ掘れ」では「なまぬるく」「カッポレ」と勢いをつける必要があったという。(でないと、風邪をひいてしまう)
カッポレ、カッポレ、甘茶でカッポレ
芸能化されたお座敷踊りの起源が「穴を掘る」という原始の喜びに起因しているという考察は、凄く司馬さんらしい。

そして、一番最初に引用した「蕎(ソバ)」との関係である。

数寄(道楽)は上方文化の「茶道具」を媒介にして始まったという。「道楽者」は身代を潰すとして卑しまれ、警戒されたそうだが、この気分が「大名屋敷」が集中する江戸へと移ったのだと言う。
数寄の気分は、大名のあつまる江戸へ行ったのであろう。ただし茶や茶道具に凝るのではなく、ソバ狂いをつくった。むろん、身代はつぶさない。
大阪育ちで生涯、活躍の場を大阪に据えた司馬さんにとって、東京(江戸)はどこか憧れの感があり、江戸っ子の持つ「サラサラ」とした気っ風の良さを、ソバとカッポレに見てとったのだろう。(最も、最近は「讃岐うどん」ブームでウドン狂いも多いけど、それでもどこか「ソバ狂い」と似た傾向を感じる。)
街道をゆくのシリーズでも、関東を取材した篇にはそんなエールを感じる物が多い。

今度、赤坂や溜池に行く機会があったら、江戸の人々の生活水だった貯水池を思いながら歩いてみよう。

2012年8月15日水曜日

終戦記念日に寄せて

今年はオリンピックが昨日まで開催されていて、例年よりも「夏の慰霊」の意識が薄かったなと反省。今日は終戦記念日なので、慰霊の気持ちでエントリーしたいと思う。

BSプレミアム「巨大戦艦 大和」
俳優:瀬戸康史氏がレポーター
BSプレミアムで三時間に及ぶ長時間番組が放映されていた。総合枠ではここまで時間を割けないので、かなり丁寧な作りだ。
太平洋戦争末期に「特攻出撃」を命じられた巨艦大和から、奇跡の生還を遂げた乗組員への丹念なインタビューと、再現映像/再現ドラマで構成されている。
大和には約3300人の乗組員が乗船していたが、生還出来たのはわずかに300名に足らない。死亡率9割とは恐るべき数字であるが、「同じ船に乗る」とはそれだけ「戸板一枚下は地獄」の世界なのだと改めて痛感する。
漢字カナ混じりの漢文調だがすぐに慣れてしまう。
今回の番組のベースになったと思われる「底本」を持っている。まだ半分しか読んでいないが、大和から生還した乗組員による沈没までの手記「戦艦大和ノ最後」(吉田満著)である。
番組もほぼこの手記に沿った形で構成されていたが、改めて実際に起きた事を細かに知ると、「国をあげて物狂いしたように突き進んでしまったのはなぜなのか。」と考えてしまう。
戦艦大和に関して、これまで言われている事を乱暴に挙げてみると。
  • 航空戦闘機と空母が主役の時代にあって一世代前の「艦隊決戦」思想から抜け出られなかった海軍の時代錯誤の産物。
  • 「大和ホテル/武蔵旅館」と言われ、出来上がっても出撃命令は無く、いつも見送り役ばかりで、他の巡洋艦/駆逐艦の乗組員から揶揄されていた。
  • 巨額の血税をして建造されたのは周知の事実で、その事が上層部の思考に「足枷」となった。
  • 殆ど無意味と分かっている「沖縄奪還特攻任務」に最後は「巨艦が無傷で残っていては海軍のメンツに関わる。」という情緒的理由で、帰還を期待されない「死すべし」の特攻命令になってしまった。

恐るべき成功体験
二度読んだがもう一度読みたい良書
太平洋戦争に関して、唯一のおススメ書を挙げよと言われたら、迷わず「それでも日本人は「戦争」を選んだ」(加藤陽子教授著)にしたい。
これまで、戦争がもたらす悲惨な状況はそれなりに多く見聞きして来たつもりだが、この著作によって、一つ「蒙が開かれた」体験をした。
現役の東大教授(加藤陽子教授)が高校生(栄光学園の歴史部!)に対して行った5日間の特別授業がベースになっているのだが、その内容の高度さと、分析の的確さ、講義に際し見事について行けている参加した高校生達のレベルの高さには本当に圧倒される。
この加藤教授は、海軍の「艦隊決戦思考」について、別の著書でも以下のように主張をされている。
  • 日露戦争の「日本海海戦」の成功が『栄光の海軍』の捉われになってしまった。
  • 真珠湾攻撃で自ら、航空戦闘機の威力を示してたにも関わらず、太平洋各所に設けた拠点を「飛行場」として整備する発想に乏しく、あくまで「艦隊給油港」としか認識していなかった。
  • この当時の陸海軍の中枢を担った世代は、物心つく頃に日露戦争の戦果に高揚した世代である。
子ども時代にどんな影響を受けていたのかという視点は、とても斬新で女性らしいと思う。先の BSプレミアムでも、「大和の沖縄特攻作戦」に対して海軍内部で揉めたやり取りが再現が成される。
この中で、若い世代(尉官クラス)は早くから「大和は無用の長物」に気が付いており、もっと時代に即した内容にリソースを割かなければならないと主張するが、ボス世代(将官クラス)は
「艦隊決戦という我が方に有利な状況に持って行けばいい。」
「ここまで金を掛けて、使いませんでしたでは海軍の威信に関わる。」
と自分達の都合が良い方向に思考をむけたがる傾向がよくわかる。

このやり取り、75年前のものであるが、現代でもそのままではないかと思うのは私だけだろうか?


壮絶な死線を越えて帰還した人々の悲哀
大和は沖縄に到達する事無く、米軍の日本側暗号文の正確な解読によって、十分に準備された包囲網に飛び込んでしまった。
 その時の様子を生存者達は語る。
「水平線上にぐるりと360度取り囲まれて、びっしり敵艦の姿が見えた。」
「母艦から飛び立つグラマン機が銀色に輝いていて、まるでおカイコのようだと思った。」
「大和自慢の46サンチ砲はとうとう最後まで、発射する事は無かった。照準を定めようと測距するも、すぐに飛行機が雲に隠れてしまって、そこから急降下するのだ。」

大和一艦の所を袋だたきにしているようなものだから、この証言は凄まじい。いよいよ舵が効かなくなり、浮沈艦と言われた「バラストシステム」では対応しきれず、大きく傾きだした所で「全員退避」の命令が下る。
3300人が一斉に艦上に出られる訳も無く、多くは艦もろとも沈んでしまったが、生き残った人々は、水中に吸い込まれた後、大和の弾薬庫の大爆発で水面に一気に押し出されたと証言している。海面に流れ出た重油でドロドロになりながら、辛うじて救護にやってきた巡洋艦に収容された。それでも、まだ波間には多くの人が助け求めていたが、それを置き去りにしたと言う。

証言者の多くは80歳以上の高齢で、当時は10代後半から20代半ばの若い徴用兵ばかりだ。自ら望んで軍隊に入ったのでは無く、兵役検査で入隊を強要されるのだが、それを「誉れ」とすべき重圧があったと言う。
「何度脱走したいと思ったか知れないが、それをすると郷里の両親が生きていけない。」
「国の為に死ねるのは名誉な事である。と言わなければならない空気。」
「自分と兄と同じ大和に乗っていたが、自分だけ助かって兄は戦死してしまった。だが、もし兄も生きて揃って帰還してしまったら、それはそれで問題だったろう。一緒に入隊した同じ村の仲間は、みんな戦死しているのに、我が家だけ兄弟揃って生きて帰っては申し訳無い。」
この絶句すべき証言に考え込んでしまう。日本人は「同調圧力」が強いと言われているが、我が国固有の特徴なのだろうか?
過激な応酬が繰り返される中東では「聖戦士」は名誉な事として、周囲から賞賛され母親達は息子が自爆テロで亡くなっても嘆く事を許されない。(ハマスの女達より)一方、ソウル・サバイバー・ポリシーと言って、兄弟を同じ部隊に配属させてはいけない、という規定を持つアメリカ(映画:プラベート・ライアンのストーリーの根拠となった規定)。
まだまだ不勉強なので、結論めいた事は書けないが、同国人を思いやる社会的な認識はどうしたら醸成されるのかと思わずにはいられない。


終戦記念日に読むべき代表作
終戦の聖断に至る経緯がよく判る
 最後に、今日という日を理解するのに欠かせない著書を紹介。半藤氏は多くの太平洋戦争に関する著作を残しているが、この「聖断」「日本で一番長い日」は押さえるべき代表作だろう。
「もっと早く終戦の決断が出来ていれば。」
とは、ずっと言われて来ている事だが、歴史はそうでなかった事を教えてくれており、なぜ出来無かったのかも、控えめに語っている。最後に、加藤陽子教授のあとがきから引用して終わりにしたい。

私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについて、その時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去の事例からの類推を行ない、さらに未来を予測するにあたっては、これまた無意識に過去と現在の事例との対比を行っています。
そのようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことだと私は思います。(それでも日本人は「戦争」を選んだ あとがきより)

2012年8月12日日曜日

アゴラ読書塾Part3第5,6回スティーブン・ピンカー/サミュエル・ボールズ/ダグラス・ノース 〜人類の基底部に存在する暴力〜


先週はマシン不調の為、ブログ更新が滞りました。ですので今週は「アゴラ読書塾」の二回分をまとめてレポート。いずれも、海外の経済学者や心理学者が最近発表している学説を取り上げ、今期のテーマである「戦争する人間」を補完する構成になっています。


スティーブン・ピンカー(暴力にまつわる社会的通念)
「どうして人類は平和でいられるのか考えるべきである。」
不勉強で全く知らなかったのだが、ピンカーは世界でも有名な心理学者だそうだ。日本ではハーバード大と言えばサンデル教授が有名だが、ピンカーは心理学の教授を同大学で勤めている。大衆向けに科学書を数多く執筆しているそうだ。
そのピンカーが2007年のTED(カルフォルニアで年に一度行われる様々な分野の人がプレゼンテーションを行うカンファレンス)で行ったスピーチが「暴力にまつわる社会的通念」である。


20分程のスピーチなので、聴いて頂くのも良いが、一番肝の部分を要約すると。

「暴力は有史以来低下して来ている。」 その理由は
  1. トマス・ホッブスが正しかった(人間は自然状態では「やるか」「やられるか」で常に暴力にさらされていたとの説を取った人物。ずっとそれを続けていては共倒れなので、暴力に寄らない中央集権国家が出来、殺人による死亡率が低下した。)
  2.  人生は取るに足らないものだと思っていた価値観がテクノロジーの進化によって「意味」を成しはじめたから。(それまでは死んでしまう事に無頓着だった。)
  3. 「非ゼロサムゲーム」の浸透(どちらか一方が他方の分を丸取りするのでなく、双方に利益をもたらす為に争わない方が有利にである。ポジティブサムゲームの増加)
  4. 人間は進化によって「共感」する事が出来るようになった。(但し、スタートは「血縁」だけに限り、それが村落→一族→部族→国家→他の人種→男女へと共感の範囲を広げて行った)
「これまでは、『なぜ戦争をするのか』と問うて来たが、本当は問いが逆だったのではないか、『どうして平和を保てているのか』と問うべきではないか。他者に自分の姿を重ね合わせることで、自分の人生の立場が偶然の結果と気づかされる。そして、それは誰にでも起こりうる事だろう。『我々の間違った行い』ばかりを問うのでなく、『正しい行い』を問う事は価値ある事なのだ。
池田信夫氏に言わせれば
「いかにも、アメリカ人らしい最後は『明るい結論』ではある。」との事だが、心理学という全く畑の違うピンカーが「そもそも、人間には攻撃性が内包されている」と言い出している所が興味深い。


サミュエル・ボールス(偏狭な利他主義を唱えた人物)
ボールズは経済学者であるが、ラディカルな論をはる人物らしい。
「偏狭な利他主義」=「互恵的利他主義」(後で見返りが期待されるために、ある個体が他の個体の利益になる行為を当面の見返り無しで取る利他的行動の一種)の研究に熱心だったボールズは、
集団を守るには「単純な利他主義」の集団では、「フリーライダー」に食い物にされるだけなので、「身内のみを大事にし、他者は排除する」前提の集団での「利他主義」(偏狭的利他主義)
を唱えた。以前のブログで図解した下記の図を参照されたい。

血縁関係と偏狭な利他主義(第3回ではグループの仲間であると識別するために、言語や宗教、音楽があるという説を検証した。
 集団を維持する為に「偏狭な利他主義」という方針をとり、集団を食い物にする「フリー・ライダー」を抑制する仕組みとして
  • 恥じ
  • メンツ
 という感情を人間の脳に深く埋め込むというメカニズムを発達させた。というのがボールズの説らしい。


ダグラス・ノース(ゲーム理論の長期的関係)
ノースはノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者である。
彼はそれまで「財産権(所有権)が資本主義経済システムを支えた」と提唱していたが「Violence and Social Orders」(左図)ではその理論を覆して「暴力が社会秩序の根底にある」として大きな反響を呼んだそうだ。
ノースは90年代に「ゲーム理論」を使って、内証的に「所有権理論」を説明しようとしたが、ゲーム理論では結局「長期的関係」が唯一の解となってしまい、「全員が合理的に行動する。」事を前提としたこの制度では、集団の規模の拡大が望めない。
読書塾Part1で使ったゲーム理論の図
そこでノースは、
  1. 暴力を独占して国家を支配する階級と被支配階級とに分化して肥大化する国家(自然国家:中国が代表例)
  2.  オープンアクセス秩序を成立させた近代西洋国家
という二つの国家の有りようを定義し、「オープンアクセス秩序」の国家が成立する条件として
  • エリートの中での法の支配
  • 私的または公的な永続的組織
  • 軍事力についての統一された政治的支配
の三つの条件が必要だと定義した。池田信夫氏は、この条件を解説する時にシンガポール等の「開発独裁」を例にとりながら、
「『エリートの中での法の支配』という事はつまり、経済発展に「民主主義」は関係無いという事です。」
と、背中を後からたたかれるような、目の覚めるコメントをされた。
経済発展は人々が少しでも豊かに暮らせるように、、という正の面ばかりで無く、負の面「国家対国家が相手よりも抜きん出る為に最後は経済力に拠る。」
という、言わば「暴力」を最大限に肥大化させる為に興った事は、戦争の歴史が雄弁に物語っている。ノースは
経済力を背景にして武力を強めた国家が世界に領土を拡大し、植民地から略奪した富によってさらに経済力を拡大する・・・という正のフィードバックが起こり、資本貯蓄が進んで産業革命が興った(池田信夫メルマガより)
 と定義付けているそうだ。これは「経済的な土台が法的・文化的な上部構造を規定する」という、マルクス以来これまで語られて来た図式をひっくり返す理論らしく、これから議論が重ねられるそうだ。


中国でも西欧諸国でも無い日本
読書塾では、散々語られて来た事だが、このノースが規定している「自然国家」でも「オープンアクセス秩序」の国家でも無いというのが、日本だ。
読書塾Part1の時のマトリクス
 真に法治国家でも無く、百姓一揆の直訴と変わらないぬるい訴えからいつまでも抜け出られ無い日本の「古層」は根深い。丸山真男の講義録にはこの「日本の古層」が実によく捉えられている。。
、、、この所、毎回エンディングに池田信夫氏が辿り着く嘆き節の一節であるが、「法の支配」とは国家と言えど法の下に従う、という苛烈な厳しさを日本人はキチンと理解していない事は、昨今のグズグズな政治状況を見ればよく分かる。

という事で、今回はこれまでの内容を改めて確認する感じで感想はこれまで。
次回はいよいよ、フランシス・フクヤマの読解に入る予定。さてさて、どこまでついて行けますか。。

2012年7月29日日曜日

アゴラ読書塾Part3第4回「中国の大盗賊・完全版」高橋俊男著 〜漢の高祖劉邦から中国共産党の毛沢東まで〜

司馬遼太郎の「項羽と劉邦」は隠れた名作
「中国は漢の時代から、共産党に至るまで、しばしば『大盗賊』が統治者として君臨して来た。」
大胆に要約すれば、今週のお題本はこう言いたいのだ。砕けた語り口で「盗賊」の定義から始まり




  1. 漢の劉邦
  2. 明の朱元璋
  3. 明を倒して帝位に着いた李自成(わずか40日で帝位を追われる)
  4. 太平天国の洪秀全
  5. 共産党の毛沢東
と時代順に章立てが並ぶ。1989年に出版された当初は、最後の「毛沢東」の章が無かったそうだ。政治的配慮で割愛されたのかも知れないが、ここが無いと、本書の魅力は半減してしまう。毛沢東とて、結局は過去の大盗賊類型であると結論付けたい訳ですからね。

結局、色々な人から「毛沢東の章を読みたい」とリクエストされ、割愛部分が復活して「完全版」と命名されたそうだ。


文武両道はありえない儒教の国
本書の冒頭、著者は「盗賊」をこう定義する。
  • 必ず集団である
  • 農村部で食い詰めた「あぶれ者」で構成されている
  • 力をたのみに、村や街を襲い「食糧」「金」「女」を奪う
  • 都市を占拠し国都を狙い、果ては天下をとってしまう
「ああ、あれだ。」
と思い至る。数年前に読んだ「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著)に、この「盗賊」達の様子が生き生きと(?)描写されている。流民とも呼ばれるらしいが、語りの名手は
「食わせろ」と言いながら人が渦のように流れる
と表現していた。

中国大陸は大きいが、耕作地に適した所は少なく、河川も黄河、揚子江の大河から灌漑工事をして水をひかないと満足に作物が出来にくい。
いつでも民は飢え易く、食べ物のある所へある所へと流れて、流れを止めてしまうと一帯で餓死してしまう。
可耕地はその10%くらいのもので、そんなに広くはないのである。大勢の人間がせまい耕地を細かく区切って耕作しているから、農業技術が発達しない。同一耕地で同一規模の生産をくり返す結果、地力は年々低下し、生産は逓減する。貧窮が普遍化し、農民は土地を捨てて流れ歩く閑民となり、盗賊が発生する。(p27)

著者は黒沢明監督の「七人の侍」の村を襲う無法者達を思い浮かべれば良いというが、とにかく、たちが悪くそれを取り締まる「官兵」はこれに輪を掛けて悪いらしい。盗賊も官兵も一皮むけば「食い詰め者」なので、結局は略奪目当てに行動する。

盗賊にとって農民は大事な「タカリ先」なのでしゃぶり尽くす事は無いが、官兵は根こそぎ略奪する。盗賊を何人捕まえたか生首でもって申請したらしく、ただの農民を捕まえて、首をはねてしれっと手柄にしてみたり、盗賊も官兵のその癖を知っているので、逃げる際に金品をいくらか置いていったり、女性を木にくくりつけて官兵に差し出したりと、とにかく読んでいて、ろくなものでは無い。

 かの国では「力(武)」は荒ぶる「しょうもない」存在であり、「知(文)」よりも下に見られていた事がよく判る。
荒くれ者どもの集団は、そのうち「知謀」を司る能力が必要になり、そこで活躍したのが「儒家」と呼ばれたゾロッとした儒服を着た「読書人」達である。おおよそ、活動的でない衣装を身にまとっているのも
「自分は粗暴な人間ではありません。」
とアピールする目的もあったと読んだ事がある。(長くて実用的で無い帽子を被るのが儒教の特徴!)

アクションが無くて残念
唐突に思い出したのが、映画「レッドクリフ」である。(1でも2でも良いのですが)
日本人俳優も大活躍のスペクタクル映画で、三国志の有名な「赤壁の戦い」がテーマだが、あれを観て何となく消化不良に思ったその訳がやっとわかった。
赤ん坊救出作戦は
国際的にも通用するイケメン俳優:金城武(諸葛亮孔明役)氏。軍略家の孔明が知謀をもって圧倒多数の曹操軍を打ち負かすわけだが、こう
「もっと孔明活躍すればいいのに!」
と思ってしまう。
派手なアクションは沢山あるのだが、それは別の俳優さん達が繰り広げる。。。その人物達はあまりキャラクターは強調されず「運動神経がいいんだな。」で終わってしまう。自分の考えや意志を表明する事が少なく、ただ「身体」を使っている印象が否めない。

要するに日本人にとって「文武両道」はヒーローの条件なのだ。
知力体力に優れたイケメンには、全編に渡って活躍してもらいたい!
「それが主役だ!」、、と刷り込まれてる。(ハリウッド映画でもそんな気が、、)

ところが、人徳は劉備、勇気は関羽、知略は孔明、、、と三国志ファンならお馴染みの完全分業が要は儒教国家という事なのだ。中国はいわゆる「文民統制」が効いた国家であると言える。


文民統制が鈍らせた危機意識
今回のお題本にはあまり言及されていなかったが、清朝末期の動乱期に欧米列強は中国を「カイコが蝕む」ように次々と都市の権益を取得して行った。この自国の独立性に対する意識の「鈍さ」もひとえに「文民統制であるが故」という意見がある。
読書塾でも
「中国は歴代『小さな政府』で、皇帝の権威と存在が守られる事に注力を注いで来た。領土を広げようという欲は殆ど無く(チンギスハンは例外)出来れば、「外から余計な民が入って来ないように」と防御する事に熱心だった。」
と語られた。前々回でも取り上げたが、「ここまでが自国」というくっきりとした境界線意識があるというよりも、皇帝が君臨する「都」が最も色の濃い中心点で、後はグラデーションのようにぼんやりと色が広がって行く、、そんな国家感だったのではないかと著者も語る。
日本の場合、曲がりなりにも「武人政治の国」(200年以上実質的な戦闘を体験していなくても)で、支配階級だった武士が「敵を力関係で捉えられる」事が出来たのだ。隣の清国がアヘン戦争の敗北によって、イギリスに領土を奪われた事を、自国のケースに置き換えて考えられる危機意識を持てた。(鹿児島純心女子大教授:犬塚孝明氏 さかのぼり日本史より)
 この時の印象で、その後の国際社会は中国という国の一面のみを理解したのかも知れない。もっとも、池田信夫氏曰く
「最近では、人民解放軍の幹部は海外留学したインテリ組が担っているので、伝統的文民統制がどこまで機能するか、やや疑問だ。」
となかなか、意味深長な意見を述べていた。


大味だけど面白い中国史
正直言えば、今回のお題本は、各章を読み進めると、段々飽きて来る。
というのも骨格が同じで、詳細(固有名詞)が違う話が繰り返される印象で物語として変化に乏しいからだ。
「大いなる繰り返し」
とでも言うべき型の類似性が、長い中国史に通底する特徴なのかも知れない。

敬愛する、司馬遼太郎は先に述べた「項羽と劉邦」以外に中国物を書いていない(「韃靼疾風録」があるが万里の長城の外の話なので、、、)同書は非常に面白く、これまで何気なく使って来た言葉の由来を知る絶好の娯楽書でもある。(「背水の陣」「四面楚歌」「函谷關(かんこくかん)→箱根八里の歌詞で有名な言葉」)
もっと読みたいと思ったのに、他に無いのを残念に思ったが、それも今回の「大盗賊」本で判った。。。パターンが同じで飽きてしまうのを避けたのだろう。


とんでもない喩えかも知れないが、「中華料理をずっと食べると何となく飽きる」の感覚と似てるかも。。。

最後に、偶然みつけた司馬遼太郎の講演録から含蓄ある言葉を引用して今週はおしまい。

中国の儒教体勢についてもう少し具体的に話しますと、中国人の場合、ほとんど文字がわからない人であっても、日本のいかなる儒者よりも儒教的な感じがします。
彼らは「信」ということを尊びます。裏切りません。
儒教における「信」とは、中国の固有の社会的な必要から生まれたようです。
「政府は恃む(たのむ)にあらず」
ということでしょう。何千年にもわたって恃みにならない政府を持ってきたため、恃むことができるのは同胞や親類、あるいは同郷の友人などでしかない。
これらすべて横の関係だけです。その関係をつないでいくモラルが「信」であり、これらは生存のために欠かせない。これが儒教というものなのです。
(「司馬遼太郎講演録1」より 1972年富山市公会堂 学制百年記念文化講演会)


、、、既に読んでいた本なのに(ガックリ)この端的に言い表した文章に脱帽。結局受取る教養が無いと、だだ漏れしてしまう訳である。



2012年7月22日日曜日

アゴラ読書塾Part3第3回「宗教を生みだす本能」ニコラス・ウェイド著 〜言語/宗教/音楽の生まれた理由?〜

第三章が一番の要
今回の読書塾のテーマは、学術的にまだ完全に証明されていない興味深い学説の紹介である。
「宗教を生み出す本能が、人間の遺伝子レベルに組み込まれている。」
というのがその主旨にあたる。なかなか興味深く、やや複雑な内容だが、少し自分なりに図解を交えて解説を試みてみる。


ブラック・ルーシー
古い教育を受けて来た私は、
「人類の祖先は東アフリカから誕生した。」
という新常識を成人してから知った。学校で習った時は「アジア人の祖先は北京原人」ってな感じで、「クロマニオン人はヨーロッパ人の祖先」と習った覚えがある。
だから体格や髪、眼の色が違うのは、「そもそも祖先が違うからだ。」と安直に結論付けていた。
1974年エチオピアで発見
ところが、遺伝子解析の技術が向上し、人類の祖先は全て共通で東アフリカの平原から地球全土に広がったと証明された。 ブラック・ルーシーである。最近はさらに古い「アルディ(ラミダス猿人)」も発見されもっと研究は進んでいるようだが、いずれにせよ人類は共通の祖先を持っていたという事実に変わりは無いようだ。
今日の学説を解説するにあたり、この前提を頭に入れておこう。


人類の歴史の大半は狩猟採集時代
人類が二足歩行を始め、東アフリカの平原に生きていた時代、狩猟採集を主とした生活を送っていた。遺跡発掘調査から最大で150人、平均すると50人程度のグループになって、2週間毎に移動するという、極めて流動的な生活を送っていた事が明らかになる。
それまでの学説では、人類と直前に枝分かれしたチンパンジーのように「ボスを頂点とした猿山」を形成したのかと思われていたが、後に似たヒエラルキーの社会を構築するものの、人類の歴史では先に「徹底した平等主義の戦闘的集団」が形成された事が明らかになりつつある。
獲物は集団の中で徹底して公平に分け合うのが鉄則だった。
丁度、今年の初めにNHKスペシャルで「ヒューマン〜なぜ人間になれたのか〜」という非常に良いドキュメンタリーが放送されていた。今回の内容を理解するのにうってつけなので機会があれば視聴をお勧めしたい!(NHKオンデマンドで視聴可能です)

さて、人類がこのように移動を繰り返しながら生活をしていた故に、様々な能力が遺伝子レベルに埋め込まれた、、というのが、今回のテーマである。


フリーライダーの排除
少人数が運命を共にする集団にあって、最も困り者なのは「フリー・ライダー」や「手柄を独り占め」する存在だ。
人間の本能レベルでは「利己的」であるが集団を維持する事が出来無い。
個人レベルで考えれば、何の苦労も無く果実(食べ物)を得られるのが、最も合理的と言える。
「利己的に振る舞う個人(フリー・ライダー)」と「利他的に振る舞う個人」が対峙した場合、フリーライダーは常に勝てるが、全員が「フリーライダー」になってしまうとその集団は自滅してしまう。
利他的に振る舞う個人が集まって集団となった場合、最も強く結束出来るので「集団淘汰」が始まるという。この集団淘汰の為のツールとして
  1. 言語
  2. 音楽
  3. 宗教
 が遺伝子レベルで組み込まれたというのだ。


利己的個人と偏狭な利他的集団
親が子どもを識別するのはたやすい。私も3人の子を生んだが、脳の深いレベルで認識し、繋がっていると直感出来る。だが一方で、それだけでは人間同士のつながりを説明するのは難しい。単純な「縁故」だけでは無い、強固なつながりがある事を、我々は経験的に知っている。
友人、同郷の人、他人の子、それらに対し「守ろう」とする感情を人類は獲得したというのだ。
人類が人類である根本の理由は「言語/宗教/音楽」を持っているからなのかも知れない。
 自分の血族で無い他人を、どうやって「自分と同じ仲間だ」と認識するのか。。そこで登場するのが、先に述べた「言語/宗教/音楽」だと、著者のウェイドやE・Oウィルソンは主張する。
この三つを持たない部族は地球上に無く、特に「言語」は生まれながらに習得能力を持っていて、鍵穴に何の言語(両親が話す言葉)が入るかを待っているだけなのだと言う。

確かに、「日本語にはね、主語と述語があってね。」と我が子に教える親はいないだろう。そんな事をしなくても、赤ちゃん言葉で語りかけて行くうちに、三歳までに一端の言葉を話し始める。
一方、宗教(音楽は宗教と密接に関わっているのでこの場合一つと考える)は「教え込まなければ動き出さないシステム」 ではないかと池田信夫氏は解説していた。


戦闘集団から守りの集団へ
丹念な人骨分析の結果、狩猟採集時代の人類は成人男性の13〜15%の死因が「殺戮」によるものであるとする調査報告がある。
常に乏しい食糧を求め、移動を強いられる生活は過酷を極めただろう。食べ物を巡っての戦闘はまさに「ちょくちょく」行われていたとウェイドは指摘している。

やがて、それだけを繰り返していては埒があかないと、人類は「農耕」を発達させる訳だがこの時に、「猿山」のようなヒエラルキーを形成して、「強いボス」の下に階層社会を築きはじめる。いわゆる「国家」の始まりである。

農耕社会で「猿山」と同じ仕組みになるが埋め込まれた性格は「戦闘的」と言えるかも知れない。
ここで、チンパンジーと似た社会構造を持つ事になるが、それまでの来歴を考えるとその性格はかなり違う。表面上は「守り」の姿勢でありながら、その内部には祖先から埋め込まれた「戦闘する集団」という因子を持っているのかも知れない。


世界に感じていた不思議
今回のお題本もなかなか難解で、自分なりに解釈するのに時間がかかった。
順序た立てて整理して思うのは「理解不能」で片付けようとしていた、世界の国々で起きている出来事の違う側面を感じた事である。

「BS世界のドキュメンタリー」という良質な番組がある。
そこで見た、聖戦に命を散らす若者達の姿を思わずにいられない。「ハマスの女達」というタイトルだったが、息子達を次々と「聖戦士」として送り出す母親達は、涙する事を許されない。その固い表情の下には当然悲しみが宿っているのだが、大いなる大義の下では「個の悲しみ」は取るに足らないものであるとされている。
この一連の様子があまりに、日常的に淡々と見えたので
「ああ、、理解出来ない。でもこの人達にはそれが普通なのかな。」
と錯覚しそうになった。
この「錯覚」こそが、著者のウェイド達が言わんとした「体内に埋め込まれたシステム」なのかも知れない。。。どこまで本当で立証可能かは判らないが、、、。

と言った所で今週はおしまい。
来週は、その世界の動きの中にあって特異な発達を遂げた「中国」の話を再びの予定。

2012年7月16日月曜日

アゴラ読書塾Part3 第1,2回「暴力、戦争、国家」 〜中国、日本、西欧諸国を比較して考えてみる〜

2012年1月から「日本人とはなにか」というテーマで始まったアゴラ読書塾は、7月からPart3に突入した。基本的に各回ごとにブログで感想をまとめて来たが、Part3の第一、二回はPart1と内容が重なる部分もあるので、私なりにひとつにまとめて、これまで共有して来た内容を振り返ってみたい。

世界史上中国はずっと先進国だった
読書塾でも、輿那覇先生の「中国化する日本」でも、たびたび言及されて来たが、世界史の中で中国は堂々たる先進文明国だった。 四大文明のうち1900年代まで専制君主国家が続いたのは中国だけである。
輿那覇先生や本郷先生(NHK大河ドラマ「平清盛」の時代考証担当)ら大学レベルの歴史学では、
中国は「皇帝」と試験(科挙)によって選抜された「官僚」達が独占的に権力を握って統一国家を作って専制するが、それは世襲では無く、必ず一定周期でリセットされ、メンバー総入れ替えになる。運用する人が変わってもこの専制システムが便利なのでずっと継承されて来た。
と認識するのが常識らしい。戦後教育では「中国は近代化に送れた国家」とされがちだが、むしろ「たかが西の辺境国が騒いでいるだけではないか。」と誇り高く、近代化を見下していたふしもある。
清朝が倒れ混乱期の後、共産党の一党独裁の現在の形になってもその本質は変わらない。
「中国は経済の自由は大昔からあったけど、言論の自由は一度も無い!」
とは池田氏の端的な表現である。 上記リンク先の「気分は江戸時代」でも輿那覇先生は
国家のイデオロギーは「儒教」でいく!と早々と決めたけれど、それを下々まで徹底して教育するつもりは無く、いわば「勝手にしてていいよ、但し国家はあなた達を何も守らないけどね。」が伝統的中国スタイルだ。共産党政権になってから、なまじか「近代国家たるもの国民に教育を施さなければ。」とギューギューと共産主義を叩き込んだもんだから、かえって息苦しい国家になってしまった。(意訳)
と説く。この理屈を知って、長年の謎が一つ解けた。

90年に起きた共産圏の崩壊の際、天安門事件をリアルタイムで見ていた人は「中国もこれで民主化だろうな。」と思っただろう。私も絶対にこの流れのまま行くと思っていた。ところが、共産党は苛烈に運動家達を攻め立て、決してそのほころびを許さなかった。その後、鄧小平が「一国二制度 富めるものから先に富む」と説いて歩いたが
「本当かいな、、なにを白々しい。」
と思っていた。ところがである、、、現在の中国の隆盛を見れば、その全てが符合する。

「クアンシー」とも言われる「宗族」は出来るだけ遠くに身内(同じ一族であれは良い)を飛ばして何かあった時はそのツテを頼りに一族もろとも頼ろうという仕組み。
中国でビジネスをした事がある人ならば、少なからず「賄賂」とか「コネ」が無いと物事が進まない経験をしたのではなかろうか。それもこれも、大昔から「国家が仕組みを作ってくれる」などと、はなから期待せず信用もしていない「信じられるのは身内だけ。」という「宗族ネットワーク」がそのベースにあるからだ。
古代から大量の人口をどうやって「食わせるのか」が大きな課題だった中国はいろいろ試行錯誤の末「勝手にやっていいよ。(システム作るのは諦めました)」に落ちついたのだ。輿那覇先生もこう語る。
「自然発生的に出来た国家を、ほおっておけば中国的な仕組みになる。」


暴力を満身創痍でぶつけ合って来た西欧諸国
今回のPart3では
社会の土台には暴力があってそれをいかに統治するかで国家の枠組みが決まったのではないか
という、最近発表されている学説に注目している。(ダグラス・ノース)

先進国であった中国は200年に一度しか内乱を起こさない基本的に平和な国家であったが、西洋諸国は小さな都市国家が乱立し、常に「戦争をしっぱなし」の状態が500年続いた。
なぜ、そうなってしまったのか理由は諸説あるようだが、地政学的に見て人口を養える地域が偏在し、ユーラシア中央部から中国にかけての様な、大河流域に巨大な灌漑設備を作って都市を構築するのが難しかったからという説もある。この厳しい状況は「制度間競争」を生み
  • 相手を負かす為には強い国家でなければならない
  • 強い国家である為には強い経済でなければならない
という論法で、西洋の近代化が発展したというのだ。
第二回のお題本「「文明:西洋が覇権を取れた6つの真因」では、「遅れた辺境国」だった西欧諸国が中国を凌駕した要因を6つ挙げている。
  1. 競争
  2. 科学
  3. 所有権
  4. 医学
  5. 消費
  6. 労動
今回は一章の「競争」のみを取り上げたが、競争はさらに3つの利点を生んだ。
  • 軍事技術の改革(技術革新)
  • 国富の増加(戦費を賄う為に交易で巧みに稼ぐ)
  • 株式会社(金融システムの発展)
 そして最終的に「法治主義」が確立される。
日本人は「法治主事」を感覚的になかなか理解出来ない。お上が決めた決まり(法律)を下々が守ると思いがちだが、そうでは無く「国家権力」が法に従うというのが、正しい「法治主義」の理解だ。( by 池田信夫)

都市は固く鎧われ、常に殺戮が繰り返された。
このファーガスン説によれば、6つの真因が西洋文明の隆盛を支え、16世紀の大航海時代でユーラシア以外の地域を発見し、そこから無尽蔵に「リソース(資源や人)」を得ながら、20世紀にまで渡って、西欧文明が世界を席巻する原動力となったとしている。


どちらにも似ていない日本
最後に我らが日本であるが、梅棹忠夫も指摘するように、この文明の衝突とも言える大きな潮流の中で日本は独自の進化を遂げている。

地理的に中国大陸の近隣でありながら、そうちょくちょくと攻め込まれる距離では無く(ドーバーは人が泳いでも渡れるが、さすがに対馬海峡は泳げない)適当に気候が温暖で、沢山の河川が急峻な流れを作って、列島の随所に流れている。
大文明の中国から必要な物を多く輸入したが、「科挙」と「宦官」だけは輸入せず独自の統治システムを構築している。

水源が至る所にある国なので、食う為の共同体がローカルに発達した

読書塾で散々議論して来た事だが、日本では「場」に属する事が最も重要で、構成メンバーの属性はあまり細かく問わず「ローカル」の存続を守る事に重きを置いた。
これは、日本の地政学と関係がありそうだ。

急峻な河川はそれぞれに小さな集団(村)を成立させ「何とか頑張れば村中で食っていける」環境をもたらした。
原初では、非常に恵まれた環境とも思えるが、このお陰で日本人は「比較優位」という概念がなかなか理解出来ないと、池田氏も輿那覇先生も言う。
「こちらではこれだけを徹底して作り、向こうではあれだけを徹底して作って、お互い交換するのがベストでしょう。」という発想が根本に無い。(「気分は江戸時代」より)
この仕組みは、そっくりそのまま「日本陸軍」や「現代の会社組織」に移植されている。(陸軍の連隊は出身地方単位で組まれていた)
戦後の高度経済成長を支えたのは、安くて大量に溢れていた「団塊の世代」の労働力で、会社という「村」組織の中で一致団結して「細かな擦り合わせ技術」をお家芸に、80年代までの経済を席巻した。あの時代日本経済が強かったのは、このお家芸と産業の発達段階が見事に相性が良かったからだと、池田氏は説く(リンク先中央の図解参照)


以上、中国/西欧諸国/日本のそれぞれの性格を簡単にまとめてみたが、3つの関係をマトリクスにまとめるとこうなる。

読書塾Part1のまとめより

産業の発達段階と、その国家や文明圏が持つスタイルとは密接に関係しているんだという事が改めて理解出来る。
相変わらず、「これから先の日本はどうしたらいいんだろう?」という問いの答えは簡単には見つからないが、大きな歴史の流れを振り返って自分でも少しスッキリした。

次回は、「宗教を生み出す本能」に挑戦の予定。

2012年7月14日土曜日

アゴラ読書塾Part2最終回「昭和天皇独白録」〜激動の昭和を生きた天皇〜

アゴラ読書塾Part2、最終回を締めくくったのは、やはりこの人「昭和天皇」である。いつもは似顔絵を描く所だが、今回はさすがに荷が重いので書籍の写真で、、。
昭和天皇は、まだまだ記憶に新しい人物で歴史研究もこれからと言える。近年多くの研究書が発刊されているが、私が読んだ関連書籍は、、



  • 昭和天皇論(小林よしのり)
  •  昭和史(半藤一利)
  • 日本のいちばん長い日(半藤一利)
  • 昭和史裁判(半藤一利/加糖陽子)
  • 昭和天皇独白録(今回のお題本)
である。小林よしのり氏の書籍は、若干内容が偏り気味なので、少し冷静に読んだ方がいいが、漫画で大枠を見せる点は評価出来る(特に終戦直後の一大行幸録はあまり言及した一般書が無いので読むに値する。)「昭和史」「日本のいちばん〜」「昭和史裁判」あたりは、資料の裏付けに基づく基本常識なので一通り押さえておくと、今回の「昭和天皇独白録」の内容が理解し易い。


率直に語った大元帥
「昭和天皇独白録」は色々な所で引用され、存在は知っていたが今回初めて通しで読んだ。この一級の資料が発見された経緯も非常に興味深いので、それは最後に紹介したい。

読書塾では、この独白録から昭和天皇が置かれていた立場を考慮し、当時抱えていた致命的欠陥を言及した。
そもそも、大日本帝国憲法(明治憲法)では「内閣」というものが存在せず、各大臣はそれぞれに天皇を輔弼(天皇が権力を行使するのに助言を行う)する役割しか無い。
内閣総理大臣も各大臣と同列なだけで、現在のように閣僚を罷免する権限も持っていなかった。池田信夫氏は
「結局、薩長が使い易いよう、明治後半は長州が使い易いように作られた憲法だった。」
と言う。元老と称される明治の元勲達が、総理大臣を推薦(事実上決める)する形で歴代の内閣が形成されて来た。これまで読書塾で見た通りである。(参照:山縣有朋
属人的に元勲達が押さえている間は明治憲法は機能したが、全ての元勲が底払いしてしまった昭和初期から、システムが誤作動を始めたと言える。

さらに軍事を司る「統帥権」が文民である大臣達の統制下に無く、直接天皇が持っていた事も災いした。天皇は軍の最高位にあたる「大元帥」だったが、実際に思うまま大権を発動出来る訳でなく「君臨すれども統治せず」の立憲君主制のポリシーを教え込まれていた。基本的に帷幄上奏(いあくじょうそう→こんな作戦を実行したいですとお伺いをたてる)されれば、それを裁可するしか無く(「もう少し考えてくるように。」とご下問という形で差し戻す事はあっても)唯一の例外が終戦の聖断である。

半藤一利氏は「昭和史裁判」の中で
昭和天皇は、よく戦術的な事に踏み込んだ発言をしている。だが、もっと大局に立った戦略眼は今ひとつ無かった。
と発言している。基本的には「平和主義者」で、日米開戦時に明治帝が日露戦争開戦を憂いた句をそのまま引用している所から、不本意に始まった戦争を何とかしたいと常に思っていた様子は、独白録からよく伝わる。
どちらかと言えば海軍贔屓で、板垣征四郎タイプ(陸軍で言葉の少ない一見いい加減そうな大将)などは信用できず、有能な事務方肌の東条英機を当初は買っていた。公家出身の近衛文麿の優柔不断さをやや嫌悪していて、だから東久邇宮(ひがしくにのみや)を首相にとの声に「宮家が政治に関与するのは良く無い。」と難色を示したのかな、、、(結果、東条英機になった)などと気持ちの内側が伺い知れる。
この記録を残した、寺崎はその家族に
「お濠の向こうの囚われのお方」
と称したらしい。直接、昭和天皇から話を聞く事で、その人間性に触れたのだろう。


戦争が鍛えたもの
「昭和天皇は、伝統的に武張った事に関わって来なかった天皇家において、戦争にコミットした稀な存在である。後醍醐天皇以来ではないか。」
池田氏はこう語る。明治帝は違うのかな?と思うけど、日清/日露の時は士族階級の元勲達がまだ実務運用をしていたから、昭和天皇ほどやきもきと細かい作戦の経緯を追う事は無かったろう。
明治期では、まだ戦争そのものの規模は小さく、国家間の関係もそれほど複雑では無かった。第一次大戦でヨーロッパは嫌という程「これからは物量戦になる」事を身を切る事で学んだが、日本は一世代遅れの意識のまま第二次大戦に臨んでしまったという解釈もある。

いずれにせよ梅棹忠夫が提唱したように、大陸では常に血みどろの国家戦争が繰り広げられ、それを繰り返す中で
目的意識を持って合理的に判断する仕組み
が鍛えられた。その為に階級秩序が作られ、戦争に勝つ為に必要なことが発明される。(この部分の話は、次節Part3のテーマとして継承される予定。)

到底勝てない相手に対し、最悪の判断である「開戦」を決めたものは一体なになのか。それは、日本古来から採用されて来た「合議制コンセンサス」で、これは本来自然な共同体が持っているものであると提唱されている。
家族や友人間では、互いに話し合って納得するプロセスが大切だが、それを言っていられない苛烈な環境に置かれた民族ほど、合理性を獲得していったと言えるのかも知れない。


知性が導いた歴史的資料
最後にこの「昭和天皇独白録」発見の経緯がとても劇的なので、ここに少し紹介したい。

「独白録」は90年に発見され「文藝春秋」紙上で全文が発表された。(当時の私はバブルに浮かれた小娘だったので、当然こんな発見があった事は記憶に無い。)
寺崎英成(てらさきひでなり)という人物の生涯と、この資料は深い関係がある。

寺崎は戦後「宮内省御用掛け」として昭和天皇の通訳を務めた。昭和21年3月から4月にかけて都合5回に渡り昭和天皇に直接ヒアリングし、張作霖爆殺事件から終戦に至る経緯を、率直に語った言葉を書き留めたものだ。(原本を筆写したものとも言われている)
戦前外務省一等書記官として日米開戦の直前までワシントンに駐在し、アメリカ人女性と結婚して娘を一人もうけている。開戦と同時に交換船で家族は日本に送還され、戦時中は「敵国人」の妻(グエン)と辛い思いをしながらひっそりと過ごしていた。知米派だった寺崎には出番が無かったのである。

終戦後、にわかに GHQと折衝をする必要に駆られ、語学堪能で外交情勢に詳しい彼は必要とされた。娘である「マリコ・寺崎」は、父は既に病を得て体調を崩しがちだったが、本当に生き生きと役目を果たしていたと証言している。
戦後の混乱が治まらない1949年(昭和24年)マリコにきちんとした教育を付けなければと、寺崎は妻子を妻の故郷テネシーへ帰国させる。それがこの夫婦の最後の別れとなり、寺崎は2年後に50歳の若さで亡くなってしまう。

この時の遺品に「独白録」が含まれていたのだが、母娘は経済的理由から来日しての墓参がままならなかったり、受け取っても二人共も日本語が全く読めなかったなどして、40年近くアメリカの民家の物置に眠ったままだった。
発見のきっかけは、マリコの息子(寺崎の孫)コールが祖父の生涯に関心を示し、祖母が持っている遺品の英訳を手掛けた事にある。
当初は寺崎の個人的な日記であろうと思っていたが、カリフォルニア大の日本研究の教授に支援を頼み、そこから東大へ問い合わせが行って初めて「昭和天皇の回想録が混じっている」とわかった。
 恐らく、歴史関係者は色めき立ったであろう。昭和が終わって平成が始まった直後に、まるで図ったかのような発見は、歴史の不思議さを感じると共に、良識ある知性はきちんと伝承するのだと感じ入った

娘であるマリコ・寺崎氏は、父英成の事をこう評している。
父は生粋の”明治の人”であり、生粋の日本人だった。だからこそ、あのような国際人になれたのだと私は思う。日本人としての教養と信条がしっかりと備わっていたからこそ、海外に出たときに、世界の中における日本及び日本人の立場と役割を国際的な視点から定義できたのである。

「混血児」といじめられて泣くマリコに、

「おまえは、ラッキーな子だ普通の人は一つのヘリテージしか持っていないが、お前は二つのヘリテージを持っている、二つの祖国の「ブリッジ」になれる子なんだ。」

と言えるのは、並大抵の知性では無い。その知性が持つ力はマリコを通じてしっかりと、孫のコールに受け継がれているのだと思う。
独白録の内容も良かったが、この寺崎のエピソードが非常に心に残って非常に良かった。
ともすれば暗くなりがちな日本の将来を
「そんなに捨てたもんじゃないかもな。」
と思える読後感だった。


今回の読書塾は13人の重要な人物の生涯を辿る事で、近代日本の歩みを細部に渡って理解する良い機会だった。
毎回、スカイプでの授業形式は運営事務局側にそれなりにご負担を掛けたと思う。しかし、1回1回の内容はとても濃厚で、事実のアウトラインをなぞるだけでは知り得ない、リアルな歴史の息づかいや空気感まで捉えられたように思う。これまでの生涯に、こんな短期間で沢山のページを読んだのは初めてで、少しは読解力がついたかなと思う。改めて、この機会を与えて下さったアゴラ研究所と、テクニカル面でのボランティアを買って出て下さった受講生さんに感謝の意を表したい。

2012年7月5日木曜日

「僕は君たちに武器を配りたい」他 瀧本哲史著 〜「武器」三部作〜

最初の一冊は講談社から、残り二冊は星海社より発行。
 「この本にあと8年早く出会いたかった。。」
三日間で一気に三冊読み終わって、つくづく思う。いつもよりも荒削りな読書感想になってしまうが、多くの人(特に子どもを持ちながら働いている女性)に読んでもらいたい「熱い著書」である。

最初にこの瀧本哲史氏の「僕は君たちに武器を配りたい」を知ったのは「HONZ(成毛眞氏代表)」 の「おすすめ本」紹介だった。内容が気になったので無く
「変わった装丁で、その点も刺激的だ。」
というコメントが印象に残ったからだ。(仕事柄レイアウトには鋭く反応!)

その後、偶然書店で見かけて本当に変わったレイアウトに、つい買ってしまった。でも、それっきり積ん読状態で10ヶ月以上放置。
そこへ偶然、著者である瀧本氏の映像を観る機会があった。(NHK「日本のジレンマ」)真っ赤なネクタイで、ひときわ鋭いコメントをするのが印象的で、あの人がこの本の著者かと、その後気が付いた時には、その偶然に少し嬉しくなった。

瀧本氏はまだ30代の若さで、私が密かに「優秀」と恐れている世代の代表格と言える。京大の客員准教授ではあるが、司法を学び、マッキンゼーでコンサルの最前線を経験した、歴戦のツワモノである。エンジェル投資家(操業まもない企業の雛を育てる投資家)として活躍されている。
同氏は明確に読者を「20代」と規定し、公演も学生向けが多く、これから社会へ巣立つ若者達が、知っておくべき必要な道具(武器)をどんどん、彼、彼女らに納入している。しかし、冒頭でも述べた通り、必ずしも有利な立場に立てるとは言えない女性(未婚/既婚/子持ち)にも、これは有益な「武器」だとつくづく思う。
え〜!こんなに大きい文字、と思うけどフォントスタイルを軽くして重たさを軽減している所に精緻な計算力を感じます。

ありえない程マージンギリギリのノンブルと柱。製本屋の腕が良く無いと難しい。

武器三部作
詳細は是非本書を読む事をおススメしたいが、この三冊は
  1. これから社会に出るに当たって心得ておく事、総覧(僕は君たちに武器を配りたい
  2. ものごとを判断して決める際のプロセスの話(武器としての決断思考
  3. 生きるとはすなわち「交渉」の連続であるという話(武器としての交渉思考
とそれぞれ明確に性格づけがなされている。内容に殆ど「ダブり」が無い所が、さすがマッキンゼー仕込みと思うが、徹頭徹尾クールな分析ばかりでなく「具体的な事例」や「熱い思い」が織り込まれている所に、瀧本氏の人間性を感じる。きっとこれからも的確なテーマ設定で続編が出るだろう。


あの時この「交渉思考」を知っていたら
この三冊には、豊富な「武器」がとりどり用意されているが、最も印象深かったのは最新刊の「武器としての交渉思考」である。

もはや時効なので、書ける範囲で書いてしまうが、20年近く働いて、今でも一番辛かった思い出がある。8年前、まだ二番目の子どもが一歳だった時、育児休業から復帰して最初の面談で当時の上司に
あなたには製品に関わるライン業務は任せない。
と告げられた。理由は
  • こどもの為にいつ何時休まれるかわからないから。
  • 遅くまで残業が出来無いから。
  • 定時後に出なければならない会議が多く、それに出られない人は担当になれない。
である。当時の私はこの勧告に、何一つ抗弁出来なかった。
「だって、こどもが病気したらやっぱり休むでしょ?」
そう詰め寄られると、怖じけてしまう気持ちがまさって、ただ黙るしか無い。
確かに子どもの体調不良は予測が効かない。これが最初の子の時だったら、怖いもの知らずで
「そんな事ありません、出来ます。」
と言い切れただろうが、既に上の子でどれだけ子どもが体調を崩し易いか知っていたので
「ぐぐううう。」
と弱腰になってしまった。後で夫からは
「そんな事無い、出来ますって押すんだよ。」
と発破を掛けられたが、一対一の面談でこちらが弱い立場に追い込まれると、そんな判断さえ出来無い。それに、どれだけ夫が頼りになるのか、その点やや懐疑的だった。

夫婦は似た年齢の場合が多く、夫だって「ここ一番」というスプリング・ボードの時期がある。ちょっとキツイ、ジョブ・ミッションをこなして「一人前」と認められる時期に、果たして「妻の栄達」の為にどれだけ譲れるものなのか。
口ではリベラルに「女性の社会進出を理解している」と言うだけの輩は多い。それは、働きながら嫌という程見て来た。そして、その事に不満を抱いているだけでは「何も解決しない。」という事も同時に経験したのである。

この話の顛末は、申し入れを飲み、やってもやらなくてもあまり影響の無い業務を任され、その後はこれまで見た事も無い最低の評価ランクを頂戴するハメになった。このままでは「飼い殺し」の憂き目に遭うと、捨て身の戦法で辛くも異動する事が出来たが、この時の評価は経歴の中にしっかり残ってしまった。

自分でも、意図的に忘れようとした事だが、この「交渉思考」を読んだ時、急に記憶が甦った。もしあの時、これを知っていれば、もう少しマシなやり取りが出来たかもしれない。例えばこんな感じに。。。

「確かに、私は小さい子どもが居ます。その状況はもはや変えられません。ところで、私には業務を任せられないとの事ですが、その要件を満たすのは『いつ何時でも無理難題に対応出来ないから』でしょうか?その難題を『手前で予測し予防する能力』は必要無いのでしょうか?子どもが居ようが居まいが、誰にだって不測の事態で体調を崩す可能性はあります。そうなった時、いつでもバックアップに入ってもらえるよう、業務をガラス張りにしておく日頃からの心がけはこれから必要無いのでしょうか?予め、そうなる事が予想されやすい私の方が、よっぽどお役に立てると思うのですが。」

まあ、例えこう答えたとしても、評価も変わらず、そんな上司の元では仕事が出来無いと、異動願いを出して結果は変わらなかったかも知れない。

それでも、きちんと自分の切れるカードと、相手が最も価値を置いているポイントはどこなのか、しっかり読んで交渉に当たっていれば、その後の過ごし方が違ったと思う。
無為無力感に苛まれ、時間を空費してしまった事こそ、最大の損失である。過ぎた時間は戻らない「サンクコスト」として考えなければならないが、後から同じ道を通るかも知れない人に、この経験値を伝授する事だけは出来る。
だから、瀧本氏は若い人達に、繰り返し語り続けているのだろう。
「儲けたいなら『老いとは何か』って本を書いています。」 
とは、けだし名言である。

もし、このブログを若い世代の女性が読んだなら、是非、この経験値を参考にして頂きたい。そして、渦中にあったり、もう「諦めよう」と思っている人には
「今からでも、出来る事をやってみようよ。」
と語りかけたいのである。「武器としての交渉思考」の最後にこう書いてある
Do your homework(自分の取り組むべき宿題を見つけて取りかかろう)

2012年7月1日日曜日

アゴラ読書塾Part2第11回「完本カリスマ」佐野眞一著 〜中内功とダイエーの「戦後」〜

ダイエーと言えばやはりあの夕日マーク。
今はロゴも変わってかつての面影は無い。
「価格は誰が決めるのか。この問いは深淵で興味深い。」
池田信夫氏は、読書塾の冒頭こう述べていた。先週の「田中角栄」が陽ならば、今週の「ダイエー中内功」は陰の要素を多く含んでいる。
05年の中内の死を補筆した上下巻の「完本」凄い厚さ。


















著者の佐野眞一氏は、多くの伝記を手掛け最近では「あんぽん」(孫正義伝)あたりが記憶に新しい。しかしながら、私はこの「カリスマ」で初めて佐野氏の著書を読んだが、ちょっと食傷気味な感じは否めない。
「日経ビジネス」に連載されたものをまとめているから、途中から読んだ人でも分かるよう「これまでの振り返り」が多く、もったいつけた「乞うご期待」フレーズも鼻につく。(会議で「これまでの確認、、」って長々と始められるとイラッと来るタイプなので。。^^;)
ちゃんと編集をすれば、半分の分量でもっと読み易くなるのに少し残念。
とは言え、その「クドさ」に目をつむって読み進めるだけの価値はある。



人間不信のカリスマ
本書でお題目のように繰り返されるフレーズが
  • 中内は太平洋戦争で絶望的なフィリピン線に投入され、兵站が全くない状態で「棄民」された。
  • ガリガリにやせ細る飢餓の中、眠ればいつ隣の同僚に殺され、己が身をむさぼり食われるか分からない極限を見てしまう。
  • その中で、最後は同僚を信頼して眠りについた。
である。そして「中内は簡単には捉えがたい人物だ。」というのが佐野氏の中内評で、以下の一節がそれを端的に言い表している。
人間不信の中に人間信頼があり、人間信頼のなかに人間不信がある。中内の底知れぬ虚無感とそれをつきぬけた楽天性は、間違いなくこの気の狂うような極限の体験がうみだしたものだった。(上巻 p352)
戦前は目立たぬ文学青年で、それほど成績が良いわけでも無く、三人の弟達の方がよっぽど出来が良かった。(長男だった中内は兄弟で唯一、学業の途中で兵隊に取られた不運な面がある。)弟達と共に起業するも、後に骨肉の争いを経て袂を分かってしまうのだが、戦後の闇市で中内の父親が息子達を「サカエ薬局」を大きくする「頭」として差配する。
年長の自分が「役職」に就けず、年下の次弟が「社長」等と呼ばれるのが、中内は非常に気に入らない。この「中内の我の強さとコンプレックス」は後のダイエーの「スプリング・ボード」になるのだが、前半の「戦後のホコリっぽさ」まで伝わる記述は、無茶苦茶に壊された本土の上を「生きなければ仕方無い。」とがむしゃらに突っ走る青年達の姿を、クリアに描いていて面白い。


神戸が育んだ「消費者主義」
ダイエーは神戸が発祥の地である。関東育ちの私には今ひとつ馴染みの薄いスーパーだが、その同じ神戸から「生活協同組合(生協)」も生まれたとは知らなかった。 中内は
「神戸から生まれたのは、ダイエーと山口組。」
と公言して憚らなかったそうだが、川崎造船所のお膝元である事を考えると、いろいろ符合する。
造船の現場は今で言う3Kの職場で、屈強な「流れ者」「荒くれ者」が集まり易い。そこから「組合活動」が生まれ、社会の底辺で苦しむ人々の為にと「生協」が生まれ、山口組三代目組長は旋盤工見習いとして川崎造船に入社している。こんな環境から
  • 売り子に付きまとわれず、好きな商品を好きなだけ選んで買えるスーパー
  • グループを作って中間業者を入れず、安くて良いものを消費者が手に入れる生協
という、方法論は違えど「消費者」が権利を主張する時代の象徴が生まれたのは興味深い。ちなみに、中内が「スーパー生みの親」だったかのように言われているが、日本で最初にスーパーを導入したのは、北九州の丸和フードセンター(創業者:吉田日出男)だそうだ。このように、今は歴史に埋もれて忘れられた事実を、微に入る取材であぶり出す点は佐野氏の得意とするところらしい。


国家を人質にしたダイエー
とにかく浩瀚な上下巻だが、ダイエーの勃興から最盛期、そして落日まで描かれている。よく引き合いに出されるのが「イトーヨーカ堂」創始者である伊藤雅俊で、今この二つの会社を比べると、悲しい程の開きが出来てしまっている。佐野氏は
男性的で暴力的な攻勢を仕掛けるダイエーは「雷オヤジ」で、女性的で低姿勢にぬらりと街に入り込んで来るヨーカドーは「鬼姑」だ。一見、雷オヤジの方が恐ろしく見えるが、本当に怖いのは鬼姑で、気が付くと真綿で首を締められている。
 と表現する。中内は
  • 典型的ワンマン経営
  • 店舗の土地建物を自前で所有する事にこだわり、ダイエー進出によって周辺地価の値上がりを期待した。
  • ヘトヘトになるまで側近を使い、自分より頭角を表すと見るや左遷人事で飛ばし、息子や婿を会社の中枢に据えた。
という経営手法なのだが、伊藤雅俊は全て逆だった。
下手すれば寝首をかきかねない鈴木敏文(現イトーヨーカ堂CEO)を側近に引き立て、結局、経営を託している。今日の「セブン&アイホールディングス」の躍進を見れば、80年代前半の分岐点(ダイエー/ヨーカドー共に減益に転じている)に取った方針の違いが両者の明暗を分けたと言える。

ダイエーが80年代に減益に転じた時「V革」と呼ばれる奇跡の逸話がある。中内が取締役会で
「俺をもう一度男にしてくれ。」
と土下座して泣いて頼み、改革の特命を受けた経営チームが組まれる。
奇跡的に業績が回復した後に、中内が取った行動は酷かった。長男を30代の若さで取締役に入れ、あからさまに経営世襲の態度を示したのだ。特命チームは体よく「出向」で外に追いやられ、折角ダイエーが生まれ変われるチャンスを中内は自ら潰してしまう。
この愚行を、佐野氏は単純に「無能な経営者」と言わず「中内が抱えた宿痾」と解釈する。餓鬼道のように食べれば食べるほど空腹感が増し、結局、信じられるのは身内だけとギリギリの所で猜疑心にさいなまれる。悲しいまでのその姿の最後を
「中内は国家を人質にした。」
と表現した。やや大袈裟な感じがしなくも無いが、もはや、破綻させようにも抱えた負債が大き過ぎて(借入が1兆6000億円)潰すに潰せず、最終的に「産業再生機構(公的資金)」の支援を受ける事になるからなのだが、
「国家によって無謀な戦線へ駆り立てられ、餓えと怒りを抱えて帰って来た中内の、国家に対する復讐。」
と彼は捉えている。この正視するのが辛くさえ感じる「怒り」を、きっと「中内ダイエー」を熱狂的に指示した消費者も同じように抱えていたのだろう。その点、田中角栄と似た構造を感ぜずいはいられない。


消費者の楽園「スーパー」の終わり
今回の話は、小売りという非常に身近な題材だった為、自分の日常と照らし合わせて考える事が多かった。特に「主婦の店ダイエー」と銘打って現れたダイエーに、今の自分はほとんどピンと来ない。

働く主婦である私は、残念ながら全くスーパーを利用しない。自分の生活実態にマッチしないからだ。
長女を産んだ13年前から、もっぱら「生協の宅配」で今日まで過ごしている。毎週このブログを書く前に、Webサイトから再来週に必要な生活品目を注文し、週1回大量に食材を配達してもらっている。食べ盛りの子ども3人抱えると、週1回直接買い物をしに行っても十分足りる分量を買って来られなくなってしまった。(スーパーのカゴ2つを一杯にしても4日間くらいで全て無くなってしまう。。;;)

昔からスーパーを利用している実母なぞは
「二週間先に届く品物を予め注文なんて出来ない。」
と少しトライして止めてしまった、お隣の専業主婦さんも同じである。「実物を見ないで計画的に買う」という行為が生活習慣に入っていかないからだろう。

そうなのだ、スーパーは「毎日買い物に行く時間のある人」の為の場であり、日本においては永らく経済力の弱い女性(主婦)が唯一、裁量権を持って取捨選択の判断が出来る楽しい場であった。(裁量権ほど人を酔わせる感覚は無いと思う。それが本当は擬似的で狭い範囲で、責任を伴わないものだったとしても、、、。)
スーパーはその心理をよく見抜いて、巧妙にしかけている。伊丹十三監督の「スーパーの女」は今見ても楽しい映画だが、もはや時代は流れ、もっと違う業態へと変化してゆくだろう。殆ど行かない私が、たまに訪れて思うのは、かつてのスーパーと比べて格段に増えたと感じる
「所在無さげに一人で買い物をする中高年男性達」
の存在だ。スーパーは他人の生活の一端が垣間見えてしまう。レジ待ちのかごを見ると
「ああ、これから一人で晩酌かな。」とか「お家に具合の悪い老いた家族が待っているのかな。」とか、日本の高齢社会をヒシヒシと感じる。

且つて、スーパーがお客だと思っていた主婦(女性達)はどんどん社会に出始め、宅配や外食、中食産業へと流れている。若者の御用達と思われていたコンビニですら顧客調査をすると中高年女性の割合が増えていているそうだ。日々変化するPOSデータから迅速に品揃えを強化したら(出来合いの物だけでなく新鮮な野菜を少量置くように工夫)売り上げがグンと上がった事例もあるそうだ。

これは私の予想だが、買い物はさらに「心躍る希少な価値観」を提供するエンターテイメント性を必要として来ると思う。
「生活に必要だから仕方無く」買わねばならない物はどんどん「ネット」と「巨大倉庫」と「網の目に張り巡らされた宅配網」によって置き換わるだろう。本屋でお目当ての本が無ければやっぱりAmazonで買ってしまうし、自分に合うサイズを求めて靴屋を何件も回るのはくたびれるし時間がもったいない。
「そんなに急がないから、次の生協宅配の時にこの荷物も一緒に配送しておいて下さい。」
ってな提携がそのうち出て来るだろう。何度も宅配のお兄さん達を煩わす事に、この所引け目を感じるからだ。


日本の持つポテンシャル
そう思うと、暗い暗いと言われている日本経済の未来も、規模と切り口を変えれば、まだまだ伸びそうな分野があると思う。

中内達世代が起こした革命は「陳列して価格で競争(そのうち品質も上げる)」という「政府の統制する経済」に真っ向対決する形態だったが「物を見なくても信用で買える」レベルまで日本の市場経済は成長した。ここまで生活全般のクオリティが高い国もなかなか無いだろう。「こんな国、私も住んでみたい。」と思う外国の人達が居るんじゃなかろうか。
グローバル化は何も、国外に出るだけがグローバルでは無く、境界線が曖昧になって沁み込む形でやってくるのだろう。

 全体的には「重い」読後感の本だったが、「深い闇」を描くことでかえって明るく光りの差す方向が見えた感じもする。田中角栄や中内功達が戦後に「正負両方の遺産」を残したとするならば、その遺産の内訳を正確に認識するのに、今回の読書塾はとても役立っていると思う。

2012年6月24日日曜日

アゴラ読書塾Part2第10回「田中角栄の昭和」保阪正康著 〜戦後大衆の欲望が生んだ政治家〜


トレードマークのポーズ。戦後大衆が生んだ政治家。
アゴラ読書塾で初の「リアルタイムで知っていた人物」登場である。私が記憶している田中角栄は「ロッキード事件で捕まった政治家」で、母は「賄賂をもらった悪者だ。」とストレートに嫌悪していた。
子どもだったから「あの人は悪い人なんだな。」とラベリングして、それっきり考えた事も無い。
「あれ?」と思い直すきっかけは、去年、茂木健一氏がTwitterで「角栄」という連続ツイートを書いていたのを読んでからだ。
茂木氏は「角栄さんは、私たち日本人にとって、一つの「宿題」なのだ。」
今一度読み返すともっと理解で来そうな気がする。
と言っている。これをきっかけに「田中角栄封じられた資源戦略(山崎淳一郎著)」を去年読んだ。今回の保坂氏の著書と合わせて、角栄本は二冊目である。
どちらも「反田中」でも「角栄礼賛」でも無い、バランスの取れた内容で、あの時代の角栄を比較的リアルに描き、なぜ彼が登場したのか時代背景を考える良い材料だ。



オールリセットの焼け跡が生み出した政治家
「俺たちは絶対に国家に殺されない。死んでたまるか。」
田中角栄という人の本質をずっと掘り下げて行くと、きっとこの言葉に行き当たる。
保阪氏の序章を読んで、これまで理解出来なかった角栄という人の根っこにパッと光が当った感じがした。
そうなのだ、これが分からないと角栄は「単なる金に汚い土建屋のオヤジ」としか理解出来ない。この要の記述を冒頭に持って来る所が、保阪氏の老練さだ。

田中角栄は大正七年生まれ。最も戦争で「殺された」世代だ。最終学歴は小学校のまま、東京に出て働いていた所を、徴兵された。
その後の軍歴は「渡満→病気発症の為戦線離脱→除隊」となっているが、保坂氏は遠回しながらこの事に「疑惑」の目を向ける。ーー「陰で言い伝えられていた『軍隊』抜けの手の込んだ仮病」で難を逃れたのではないかと暗に示唆しているのだ。(若い山崎氏はもっと素直に、角栄は重い病気で生死の境を彷徨った挙げ句、運良く回復したとしている。)

角栄が所属した部隊は、後にノモンハン事件で派遣され、装備に勝るソ連軍と対峙して死傷率7割という壊滅的打撃を受けた。角栄はギリギリの所ですり抜け、生き延びたとも言える。これを「運が良かった」とせず「したたかに自分で仕向けた」と保阪氏は解釈する。
入隊前から既に世間の風に吹かれ、世の中の「本音と建前」を知り、女性経験も持った「権力は無いが生命力旺盛な男達」の代表が角栄だったのだ。

 この点、次回取り上げるの「ダイエー創始者の中内功(大正11年生まれ)」や「山本七平(大正10年生まれ)」世代はもっと痛々しい。学業の途中で強制的に軍隊に取られ、史上最悪の戦略無き杜撰な作戦で、大量に犠牲を強いられたからだ。
若さ故の「純真無垢」に国家が付け入ったとも言える。「逃げよう」という知恵も回らず、「死して護国の鬼になる」と信じ込まされた悔しさはいかばかりだろう。
戦後「自分達は騙された」と想うのはもっともだ。その強い想いが強烈なドライブとなって、爆発的なクリエイティビティを生んだのだ。

角栄がどこか「あっけらかん」と汚職をするのに比べ、次回の中内の印象は「どこまでも薄暗い洞穴」が続いている。それは、昭和という時代の二面性を端的に表しているのかも知れない。


定見無きベンチャー政治家
保阪氏は、田中角栄には「定見が無い」という。「親米派」でも無く、かと言って「左がかった思想家」でも無い。言うなれば、
直近の問題を、最速最短で解決するにはどうしたらいいのか。
、、と、これだけを考えていた政治家とも言える。
  • 金がそこにあるのならどんどん使えばいいじゃないか(郵政大臣で初入閣した時に郵便貯金という大きなお財布を発見!!これを使おう!)
  • ルールが無いなら作ればいいじゃないか(議員立法100本以上、この記録は未だ塗り替えられず!とにかく作る作る!)
  • 困った人がいるならば救済すればいいじゃないか。(目白の田中邸には陳情受付の特別スペースがあって凄い早さで処理されていた!)
「今太閤」ともてはやされた時代、このスピード感と民衆に分かり易い(すぐに自分達の益になる解を示してくれる)「生命力旺盛な男」は、巧みな人心掌握術を駆使して絶大な人気を誇ったそうだ。
「角栄が高度経済成長を潰した」 とは、「高度経済成長は復活出来る(増田悦佐著)」の見解だが、池田信夫氏は
「角栄がああやって都市に集中した富を地方に分配した結果、高度経済成長は止まってしまったが、都市のスラム化は防げた。急速な発達は激しい格差を生んで、都市にスラム街を抱えてしまいがちになる。東京は驚く程、世界の中でもスラム街が無い。」
という。確かに。。。これが物事を立体的に見るという事なのだろう。また同氏は「角栄は政治家のベンチャーだった。」とも言われた。
政治家の本流は、前々回の岸信介や福田赳夫、中曽根康弘(つまり官僚系)で、角栄はどうしても「傍流」の域から出られない。
傍流の悲しさで「金はある」「定見は無い」「何となく民衆の味方っぽい感じでちょっと左?」が特徴だが「肝心な情報を押さえる」という点で、本流に及ばなかった。そこを突かれて最後はロッキード事件にはまり込んでしまった、、、という解釈はさすが元NHK報道局ディスクの経歴を持つ池田氏の話は面白い。


資本主義は3%の無鉄砲で支えられている
池田氏は、角栄政権後半に起きたオイルショックは不運な巡り合わせだったという。
「角福戦争と言われて、辛くも角栄が首相になったが、順序が逆だったなら良かったかも知れない。福田赳夫はデフレ的抑制政策をするタイプで、角栄はその逆。オイルショックのような外的要因が襲いかかった時、角栄のインフレ政策が却って狂乱物価を招いてしまった。」
世界的に見ても、サッチャー、レーガンと財政再建を主とした抑制政策に舵を切った時代であり、日本はちぐはぐな事をしてしまった。
そこへ週刊文春の「立花隆レポート」が角栄の汚職疑惑をあばく形で掲載され、ロッキード事件が始まる。本書はロッキード事件にはあまりボリュームを割いてておらず、池田氏も
「汚職が良いとは言えないが、ではCIAから金をもらっていた岸はどうなのかとなる。それまで官邸記者クラブでは『公然の秘密』で、みな知っていたのを、無名のルポライターだった立花隆が、怖いもの知らずで書いてしまった。今なら「名誉毀損」で裁判で訴えられたら負けただろう。あれはノンフィクション・ルポの始まりで、その衝撃の強さに報道も加熱し、以後どうも『ロッキード事件の田中』という所に目が行ってしまいがちになる。もう少し視線を引いて、彼の存在の意味を考えてみるべきだろう。」
「資本主義は3%の無鉄砲で支えられている」とはミルトン・フリードマンの言葉だそうだ。角栄は「アニマル・スピリッツ」の塊のような人で、戦後の焼け野原にはこんなバイタリティーが必要だったと、池田氏は言う
「あー、うー」とあだ名された、かの大平正芳元首相は大変な読書家で有名だった。この大平と角栄が昵懇だったことを考えると、角栄にはどこか憎めない「人望」があったのだろう。本書にこんな印象的な一節がある
田中は、大平の話す内容は精緻であり、その論旨も明快なのに、なぜ人の心を打たないのだろう、といつも気にかかっていた。(中略)田中はその事を何度も大平に忠告したという。
「お前さんの話の内容を記録に残すと、誰もが感動するような重みがあることがわかる。しかし、なぜ同じ言葉で説得しても人が動かないのか。お前の喋りは眠たくなってしまう。まずは<間>をとるように気を使わなければだめだ。」
大平は、「だからお前にいつもごまかされてしまうのかな。」と苦笑したという。( p139)
保阪氏は「田中角栄のスピーチは文字起こしすると、殆ど内容を成さない。」と手厳しい。 角栄政権での最大の功績と言える、日中国交正常化の背景には、外務大臣だった大平の意向が大きく影響していた。この一見、水と油ほどに違いそうなキャラクターの二人が歩調を合わせた事も興味深い。角栄から帝王学を直伝された直系の小沢一郎氏とこんな所に「格の違い」が出るのかも知れない。
いろいろな点から考えて角栄は、大衆が望み、大衆が生んだ政治家だったんだと味わい深く認識している。

2012年6月17日日曜日

「歴史人口学で見た日本」速水融著 〜江戸時代の違う姿が見えて来る〜

新書で手頃な厚さ
今週は、アゴラ読書塾が変則開催なので、いつもの感想ブログはお休み。折角なので、少し前に読んだ印象深い本を簡単にご紹介。

数字から見た江戸時代の実態を探る
輿那覇先生の「中国化する日本」で、この「歴史人口学で見た日本」という著書を知った。他にも沢山の文献紹介があったが、これだけはどうしても読みたいと思って買ったのである。
統計学が日本に入って来たのは明治維新以降で、それまでは全国的にキチンと数を把握する為の調査は無かった。
だから、あくまで推定となるが「宗門改帳(そうもんあらためちょう)」という各地方村単位で行われた調査記録が、はからずも江戸時代の人口とその流動実態を浮き彫りにした、、というのが著者である速水氏の研究成果だ。

「宗門改め」とは豊臣秀吉に始まった「キリシタン禁令」を徳川幕府も継承した際に
「当家にはキリシタンはおりません。」
と届け出させる為に、決まった間隔で各戸の人数調査をした記録の事である。調査方法や記録の取り方は、各村のやり方に任されていたらしく、全国一律というものでは無いが、それでも保存状態の良い村ではかなりの年数に渡って、どれだけの人が生まれ、どこへ移動し、どうなったのか、、という事がつぶさに分かるらしい。
速水氏はヨーロッパ留学をした際に「教会に残る出生記録」を使って歴史学者達が過去の人口構成を推測しているという学問に触れ、日本の「宗門改帳」とを後に結びついたらしい。

エクセルもデジカメも無い時代、車に辛うじて詰めるマイクロフィルム撮影機を持ち運んで、資料が出たと聞いては収拾に走り、一点一点手書き作業で情報の整理/分類に費やした労力には感服する。
「少し早く生まれ過ぎたかな。」
と、現代の恵まれた統計ツールを見ると思うそうだ。


都市アリ地獄説
速水氏の研究で目を惹くのはこの学説だ。江戸期の大都市は農村で余った労働力を吸い込んで、使い捨ててしまうというのだ。
江戸中期である1721年〜1846年の125年の間、全国単位で見ると総人口に変化が無い。変化が無いから学者はあまり関心を持たないそうなのだが、速水氏は逆に注目したのである。
関東地方と関西地方の大都市を有する地域では、飢饉が無い年にも関わらず人口が減っている。
一方「宗門改帳」には各戸の人の出入りが記録され、出た人の理由やその後どうなったのかが推測出来ると言う。ある村の記録を例に取ると、周辺の大都市に出稼ぎに出た人の約30%が「奉公の終了理由→死亡」となっている。
つまり、地方村は放っておくと人口は徐々に上昇しはじめる。土地を中心とした「家制度」だと、沢山の子どもに土地を分け与えて行くとやがて先細ってしまう。次男、三男、女の子等は平均13〜14歳で奉公に出されていた。
一番立場の弱い小作人が最も多く輩出しているが、自作農/地主層からも奉公に出るケースが見受けられ、適宜全体の人数調整をしているというのだ。
この時代の都市は決して良い住環境とは言えず、劣悪な環境下で命をすり潰していた。
「江戸っ子は三代もたぬ。」
という諺を引用しているのが、印象的だ。輿那覇先生は
「姥捨て山ならぬ孫捨て都市だ。」
と説いて、家長直系ラインに乗った者以外は蹴落としてしまう姿に、現代のブラック企業しか就職先を見つけられない若者達の姿と重ね合わせておられる。


高い乳幼児死亡率
もう一つ印象深かったのは、非常に高い乳幼児死亡率だ。何となくそうだろうと思っていたが具体的な数字に驚いた。
記録が几帳面に残っている「奈良」「美濃」を例に取ると、年齢別の死亡率では、一歳未満が21%と突出して高く、他の年齢では平均5%前後にぐっと下がる。
しかもこの調査は「毎月行われていた」という貴重な特徴があり、少なくとも一ヶ月は生存した赤ちゃんの事をカウントしている事になる。
速水氏はもっと高い死亡率では無かったかと推測している。というのも、明治期に入って試験的に「人口調査」が導入された横浜市では最悪期だと一歳未満の死亡率が30%という記録もあり、恐らく江戸時代中期であればもっと一ヶ月未満で死亡してしまうケースが多かっただろうというのである。

「子どもが無事に成長できるか。」
は非常に不確実な懸案事項で、跡取りが絶える事を恐れる「家制度」ではリスク回避の為に子どもを産み続け、あぶれてしまうと「外に出す」を繰り返していた事が分かる。

ここ数ヶ月、様々な人物伝を読んで来たが、貧富に関わらず明治期までは、子どもの生存率が低いなぁと感じていた。
山県有朋は何人も正妻との間に子どもをもうけながら成人したのは娘一人だし、石原莞爾の兄弟は次々夭折して成人したのは彼を含めて3人だけ、東条英機も彼の上に夭折した兄が二人も居た。

生まれた子がほぼ成長出来るのは、大正期に入ってから。。。これは工業化に伴う住環境や食糧の質が向上したからだ、、という説を読んだ事がある。
医学の進歩と言われるが、劇的に変わったのは「感染症」に対する抗生剤の発見程度で、圧倒的に影響を及ぼしたのは免疫力を向上させる「食糧」と「住環境の保温」だそうだ。

少子化が問題視されて久しいが、歴史を長い尺で眺めてみると
「この意味は何なのか?」
と自問したくなる。
三児の母であるからこそ、子育ての嬉しさと辛さが少しは分かっているつもりで、余計に考え込んでしまった。とは言え最後に無視出来ない図表をアップして、今回は終了。
このグラフが現実なのだから、システムを変更しないと大変な事になるのは自明ですね。
「日本の人口ピラミッドは『釣り鐘型』かな。」と呑気な事を言ったら、当時中1の長女に「お母さん、日本の人口はもう『壷型』だよ。」と諭される。こんな突き出た庇を細い土台では支えられませんね。

2012年6月10日日曜日

アゴラ読書塾Part2第9回「悪と徳と 岸信介と未完の日本」福田和也著 〜悪徳輝く大政治家〜

巣鴨プリズンから釈放され首相まで昇りつめる
 石原莞爾に続いて福田和也氏の著作は読書塾で二度目である。
「この本はベストでは無い。」
という池田信夫氏の但し書き付きであるが、前回の「地ひらく」よりは文体がこなれて読み易い。

岸信介を中心に激動の昭和史を俯瞰出来るので、分けて考えがちな「戦前/戦後」を一つの地続きで捉えるにはうってつけである。
石原莞爾/東条英機とほぼ同時代を生きながら終戦で潰されず、戦後にまで名を馳せた人物はまさに「悪徳輝く」である。吉田茂では無く、岸信介を題材に選んだ理由を
この岸が戦後レジュームを作り、今でもその影響が日本に残っているからだ。」
と池田信夫氏は語る。


岸信介という悪党
赤と黒をぶつけた印象的な装丁
偶然にも私は去年、御殿場の「旧岸邸」を訪ねた事がある。仕事で同僚数人と訪れたのだが「岸信介」が誰なのか全員ピンと来ていないようだった。(多分全く知らないって輩も数名含まれていたと思う。)
私も「昔の日本の首相だったな。」レベルの認識で、正直どんな人物で何をした人なのか、しっかり理解していなかった。
こんな事を告白すると、団塊の世代は嘆くだろう。でも、悲しいかな戦後教育の賜物はこんな程度なのだ。
記憶にある首相は、大平正芳あたりからで、下手をすれば最近の子どもは「首相は毎年交代する」と思っているかも知れない。(いや、そもそも首相って誰?レベルかも(^_^;)

政治に対して「無関心」と言われて久しいが、吉田茂や岸信介の時代は「政治が熱かった」事がよく分かる。「岸って誰?」な方の為にざっとアウトラインを書き出してみる。
  • 一級のエリートなのに軍人を選ばず、官僚となっても「大蔵省/内務省」の表街道ではなく、三流官庁とされた「農商務省」を選ぶ。
  • 満州の「二キ三スケ(東条英機/星野直樹/鮎川義介/松岡洋右/岸信介」の1人に数えられた実力者。
  • 軍需省創設の立役者
  • サイパン陥落後、東条内閣にさっさと見切りを付けて反旗をひるがえす。(後のA級戦犯不起訴にこれが影響した?)
  • 吉田茂内閣倒閣後、上世代の有力者の死が重なって首相の座に着く。
  • 「安保改正反対」の学生運動で批判の的となる。
池田信夫氏が、この著作を評価しない点は、岸とCIAとの関係に全く触れていないからだと言う。情報公開が進んでいる米国ではCIAの記録が公開されているらしく(誰でも閲覧可能な表層レイヤーでなく、もう少し限定された範囲での公開)そこに岸や、弟の佐藤栄作らの名前が出ているという。(池田信夫blog:CIA秘録

自国の情報を売る売国奴が首相であるとは由々しき事態であるが、岸が「大物」と言えるのは心底「国粋主義」であり、石原莞爾や北一輝に通底する「強い目的意識の為に手段を選ばない剛直さ」にあると言える。反米思想でありながら、状況によってはどんな手段でも(親米と取られる行動でも)取る、色々な意味で「クレバー」な人物で「妖怪」とはよく言ったものである。
「岸を総括して言えば『悪党』で『信念の面では国にとって正しい事をし』『経済は下手くそ』ですね。」(by池田信夫)
と、いつもながらの鋭い分析である。


60年安保闘争
御殿場の「旧岸邸」の庭。非常に手入れが行き届いてる。
本書の冒頭に「安保闘争」の場面が描かれている。興奮した学生達が国会議事堂構内に雪崩れ込み「安保改正が自然成立」するのを阻止しようと警官隊と衝突する。岸は泰然と首相官邸で過ごしながら、その成立を待つーー。その様子が「もっとも岸らしい」と著者は考える。

現在では、この「安保改正」はサンフランシスコ条約締結時(1951年)に同時に交わされた「安全保障条約」よりも日本にとって不平等でない内容へ改正するものであるという解釈で、学生運動は条約改正の内容を冷静に読み込んだ論争(、、を越えてもはや闘争ですが)では無かったと聞く。
「学生運動って、アメリカを排除して日本は独立するんだって学生達が決起したもの?」
程度の認識だった私は、苦笑したい気分だ。
「綺麗事だけじゃ世の中治まらんし、事態は前に進まない。」
と岸は思っていたのだろう。その後、新条約批准手続きを終えた後、岸内閣は総辞職。この間、暴漢に襲われて、岸は重症を負うのだが、まだまだ戦争の記憶が生々しく、世相の空気が可燃性を帯びた危険なものだったと、認識を新たにする。

因に、偶然訪れた先の「岸邸」では、特別展示として「吉田茂と岸信夫の往復書簡」が展示されていた。
「もともと吉田首相は書簡戦術が得意であった。微妙な局面に直面すると、読み方によってはどうにでもとれるような、思わせぶりの文章で相手を撹乱し、何とか切り抜けてきたことがしばしばであった。鳩山氏も重光氏も吉田氏のこの手に引っ掛かったことは一度や二度でなかった。巻き紙に達筆で書かれてあるので、判読できない箇所も時々あった。豊富な漢籍の素養に加え、長年の外交官生活による習性があのような文章をかかせるのかもしれない。『岸信介回想録』(本文p342)
という一文があって「あ、あの展示の手紙か。」と今頃合点がいった。
書簡はこの「安保改正」に関する内容のもので、解説文も展示されていたのに、ちらっと眺めただけで流してしまった。今だったら、もっと興味深く読む事が出来たろうに、惜しい事をした。
確かに、吉田茂の手紙は本当に達筆で、対する岸の手紙もこれまた達筆。。。
「この時代のインテリの素養は、この程度が当たり前とされたんですね。」
説明について下さった方からこう聞いた。「大人の政治家」が居たんだなぁ、、などと言ったら、はしゃぎ過ぎだろうか。


開発独裁は「止められない麻薬」
池田氏の言う「岸は経済は下手くそ。」の経済政策であるが、彼は満州時代から「官主導型」で政府が産業を保護育成するという方針である。日本産業の鮎川義介を口説き落として、満州に法人を発足させたあたりが、その絶頂かも知れない。池田氏は
「開発独裁はある時期までは必要で効果的なんです。問題は、それを『卒業出来ない』ってところ!」
なるほど。。国が弱く産業の揺籃期には、弱小企業があまたあっても仕方無いので、官が牽引をした方が良さそう、、に思えるが、世界的な産業構造が変わり、競争にさらされながら素早く対応を組み替えなければ生き残れない時代に、、
「官が指導して上手くいった産業政策なんて皆無に等しいんです。唯一の成功例が『超LSI技術研究組合』のプロジェクトくらいですね。」
と語る。この部分の考察は、池田信夫氏による「よみがえる産業政策の亡霊」(PDF形式でネット上に載ってます。)が詳しくとても参考になる。
 かの、官営富岡製糸工場も、民間に払い下げた後に利益を生むようになったそうだから、ある程度力を付けて来たら「邪魔をしない(規制緩和)」が最も効果的な「官」のあるべき姿なのだが、それが出来れば苦労は無い。。
 因に、前述した鮎川は芝浦製作所(現:東芝)で一職工として鋳物を学び、鋳物工場を起こしたベンチャー経営者である。不勉強で知らなかったのだが、この「日本産業」が現在の、日産自動車や日立製作所、ジャパンエナジーなどの前身母体となる企業だったとは恐れ入る。

「開発独裁」と言えば中国などは上手く行っているんじゃないかと思いがちであるが、実情は彼の国でも「ベンチャー系」企業の方が成長しているそうだ。古くから(それこそ宗代から「経済の自由はあるけど、言論の自由は無い」中国は商売にかけては世界一賢い民族とも言え、現在の元気の良さは当然の結果と言える。(このくだりの話はとても面白かったので、また別の機会に!)


岸邸が伝える「家主の信条」
最後に、御殿場の岸邸を訪れた時の写真を紹介したい。本書の中に、かつて岸の部下だった武藤富男が岸を評したこんな一節がある。
僕は何事についても財政のほうから考えるように頭が仕組まれている。これは大蔵省で働いてきたためであろう。それに比べると商工省出身の岸さんは『物』についての知識が実に豊かである。例えば、自動車の話になると材料や、機械や、部品や、メーカーや、原価なども、たなごころをさすように語る。ここにある家具についても、産地、製作費、材料、原価、売値など小さなことまで正確に知っているには驚く。(『私と満州国』武藤富雄 本文p176)
御殿場にある「旧岸邸」今は御殿場市が管理している。

この証言を岸邸は存分に語っている。派手な建築(例えば鳩山邸とか)では無いが質実剛健で「パブリック・スペース」と「プライベート・スペース」にキッチリ分かれている所が、公職から退いてなお、政府要人が何時、何人訪ねて来ても応対出来るよう、設計されたのだと言う。(設計は吉田五十八:東山岸邸サイト

元岸邸の敷地だった所に「とらや工房」が隣接。
一番驚いたのが、プライベートスペースの「床の間のある和室」でここの畳の縁は通常の物よりもやけに「細い」
説明員の方曰く「周囲の障子の枠の幅と畳の幅がきっちり合うよう作られた特注品で、障子を閉めると畳の縁と障子の枠がピタッと同じ幅になってつながる。」そうである。
ひやぁ、、恐れ入りました。施主と設計者の気持ちが合わさった合作なのだろう。

車回しからの庭の眺め!
まだ未読だが、御厨貴著「権力の館を歩く」にもこの岸邸が取り上げられているらしいので、是非読んでみたいと思う。
昭和生まれの癖に、昭和の事を殆ど知らないんだなぁと、岸信介を調べて改めて思う。

畳の縁と障子の枠が同じ幅の和室!!
パブリック・スペースの応接間

12人掛けのダイニング


当時のままの照明器具。全て特注品。

常時お手伝いさんが3名で回していたという厨房。今でも使えそう。 

2012年6月3日日曜日

アゴラ読書塾Part2第8回「大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清」松本崇著 〜近代日 本屈指の財政家〜

笑顔が凄く素敵な写真があったのでそこから作画。
高橋是清の事はずっと気になっていた。「坂の上の雲」では、戦時公債の募集に奔走し、「日本のケインズ」と称されている人物らしいからだ。
私は本当に経済音痴で、基本的な事は理解出来ても「円の切り上げ」とか「切り下げ」とか「円安/円高」と言われても咄嗟にどっちがどうと峻別出来ない。小さい子が「右」と「左」がすぐに覚えられないのと同じで、ゆっくり考えると判るのだが、永遠に自信の無いジャンルである。
だから、経済に強いというのは、それだけで偉いと思ってしまうし、ここが見えている人は「リアリスト」だと思う。先日の読書塾でも、池田信夫氏は
「高橋是清はリアリストだった。」
と断言されていた。今回のエントリーは、分からない人間が身の丈で、高橋是清と近代の財政史を噛み砕いてみようと思う。


地生えの財政家
お題本である「大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清」はやや看板に偽りありで、内容は殆ど「近代経済史」である。(高橋是清の記述は全体の三分の一)
財務省の現役官僚が書いたものなので、よく調べてあって非常に勉強になるが、惜しい事に構成が時系列に組んでおらず、内容が行ったり来たりで、全体の流れを掴みにくい。専門雑誌への連載記事をまとめたので、こうなってしまったのだろう。高橋是清の来歴は全く書かれていないので、少し調べる事にした。

幕末の嘉永7年(1854)幕府の御用絵師、川村庄衛門と女中キンとの間に庶子として生まれたのが是清である。「そんな時代だった。」と言えばそれまでであるが、キンが身重になったのを知った庄衛門の妻はキンを気の毒に思い、キンの叔母の家へ彼女を預け、時々見舞ったりして、手厚く面倒を見たと言う。(偉いなぁ)
無事、是清が誕生した後に、金二百両と衣服を贈って手切れにした。その後、赤ん坊のうちに仙台藩下級藩士「高橋家」に里子に出され、そこで実子として可愛がられて育つ。
十四歳で藩からアメリカ留学を命ぜられたのだから、かなり優秀だったのだろう。渡航費用を横領されたり、行った先のアメリカのホストファミリーに奴隷として売り飛ばされたり、普通に聞いたら、波瀾万丈で苦労の連続と思えるのに、その苦境を上手にバネとする、しなやかな楽天家の資質が垣間見える。
帰国後、大学へ入学したつもりが「教官三等手伝い」という職員扱いで、わずか16歳で給料取りになった。以後、是清には学歴というものが無く、全て独学で学んでいる。後年、蔵相として望んだ予算閣議で、世界地図を持ち込みながら、対ソ戦を標榜する陸軍に向って
「国防は攻め込まれないように守るだけで十分なのだ、そもそも幼い時から特殊な教育を叩き込まれた(陸軍幼年学校の事を指す)軍人は常識が無い。その常識が無い人間が嫡流として幹部となって、政治にまで嘴を入れるというのは言語道断、国家の災いだ。」
と公然と面罵するのだが、それもこれも、土煙と汗と血をかいくぐりながら、日本と世界を見続けて来た明治人の「揺るぎ無い経験に基づいた自信」と言えるだろう。
この歯に衣着せぬ物言いは、庶民に人気が高かったが、陸軍の恨みは買った。二・二六事件で襲撃目標にされた要因の一つとも考えられる。


地租改正を遠因とする地方の疲弊
本書は、明治維新からの経済史を紐解いていて、いくつかキーワードが浮かんで来る。その一つに「地租改正」がある。
そもそも、江戸期は「農本経済」で米を主流として、各藩がそれぞれの才覚で経済を回していた。念のため記しておくと、徳川幕府は「各藩の代表」で一番大きな藩というだけ。国家を運営しているというものでは無い。だから国家予算などは無かったし、後を継いだ明治政府は大急ぎで「国家予算」的なものを掻き集める必要があった。(それまでは維新に参加した各藩からの支弁)
廃藩置県でまず土地を国家が吸い上げ、各藩が抱えていた士族というサラリーマンを、一気に一時金を渡してリストラしてしまう(秩禄処分)。極めつけは、農作物(米)に頼っていては安定した税収が望めないので、耕作地を改めて検地し、収穫高に応じて一律3%の金額を「現金」で納めるよう定めた「地租改正」を断行する。
この時、そもそも現金を持つような暮らしをして居なかった自作農は、耕作地の権利(地券)を地主に渡して小作人になり、地主に物納(米)する事で代わりに税金を払ってもらう事例が多く発生した。納税の義務は土地に権利を持つものが担ったが、米は毎年価格が変動するので、物納を受けている地主には「実質減税」になってその利益が直接舞い込んで来る。
一方小作人は、殆どその恩恵に預かれず、地主と小作人の貧富の格差は広がるばかりだった。ここに働かずして暴利を得る「不在地主」が登場する。
著者の松元氏は、夏目漱石の小説に登場する「高等遊民」はこの「不在地主」だったろうと推測している。前回、夏目漱石のレポートをした時の疑問「(小説『こころ』に登場する)先生は、働いている風が無いのに、一体どうやって生計を立てていたのか。」の謎がやっと解けた。この不在地主達は、やがて都市生活を楽しんだり、豊富な財力をバックに事業を起こしたりする。
この「地主」は戦後GHQが農地改革をするまで続き、不利な立場に追い込まれた「小作人」達は、大正期には「都市部の工業化の労働力」として駆り出され、日露戦争や第一次大戦後に増大した行政需要(一番増えたのが教育費)の財源のしわ寄せをもろに受けた。

国は「やりなさい」と地方に言っておきながら、その財源を手当する余裕が無く(軍事費も増えていたので)各地方は地方税として住民から徴収するよりほか無い。
この当時、地方財政の自主財源比率は高く、実に四割五分が町村税として住民から徴収していた。その事を踏まえて、是清は
「(中略)その負担は町村自ら町村会議員達が、自分達の出すべき税を求めておいて、さうして重くて困る困るという。(中略)困るからどうにかしてくれ、金をくれと言って泣きついて来るのは、元来無理は話なんじゃ。」
という持論だった。でも、地方に言わせれば
「国がやれと言った事では無いか。」
となり、この事だけ見て「高橋是清は農民の敵」とまで言われてしまう。
一方、国にしてみれば、先の「不在地主」達が実質減税になっている事からも、
「国は税を取っていないんだから、地方にはその力があるよね。」
と言う理屈になる。著者の松元氏はさすが、主計局の人でこの双方対立している状況をこのように説く。
その事情はミクロ・レベルで個々の自作農や地主の担税力を高めるものではあっても、マクロ・レベルで見た場合の農村の担税力を高めるものではなかった。第一次大戦を契機として我が国が、製造業を中心に約三倍もの経済成長を実現したことは、実は農村部の相対的な経済力が三分の一への縮小したことを意味していた。都市部の担税力が大きく伸びるなかで農村部のマクロ・レベルでの担税力は縮小していたのである。(p211)
二・二六事件を起こした青年将校達は、農村の疲弊は国が何も手を打たないからだと思っていた。少し視線を引くと、もっと違う関係があるのだが、ここまで深く理解させるのは難しい。


金本位制と昭和恐慌
さて、本書の最も重要と思えるもう一つのキーワードが「金本位制」である。現在の変動相場制の常識から考えると、なかなか理解しずらいが、大雑把な言い方をすれば
その国の保有している金の量に応じてお金を発行する。金は地球上に限りある物だから世界共通通貨として使える。(、、、と思う)
という考え方で、近代西洋諸国では「金本位制」が主流だった。
日本では、江戸期に「江戸の金使い、大阪の銀使い」として金銀両方混在した流通となっており、幕末開国時にはこれが逆手に取られて、大量に金が国外に流出してしまう。

その後、松方蔵相によって明治30年「金本位制」に参加するが、この時は円滑に行われた。(国内では反対もあったがそれを押し切って断行)
この背景には、当時横浜正金銀行本店支配人だった高橋是清が「建白書」として新平価(通貨比率)で導入する事を薦め、それが採用された事情がある。(一円=1500mgと定められていた所を、一円=750mgに変更して実行)このお陰で、金の流出という不測の事態は避けられた。この事からも分かるように、高橋是清は金本位制には推進の立場を取っている。(地味だが、実に愉快な時期だったという意の述懐を自伝に残している。)

時代は下って、昭和初期の第一次大戦後、それまで各国が「金本位制」から一時離脱していたのが、順次解禁となり解禁していないのは日本のみとなった。内外から「金解禁は当然」と受け止める向きもあり、当時の浜口雄幸首相(ライオン宰相と愛称される)は
一時的には苦しくなるが、金解禁は経済正常化には必要な事であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造が改革される。
と強く考え、金解禁を断行してしまう。今日これは最悪の経済施策とされている。
第一次大戦中は特需に湧いて、日本国内はバブル景気だった。これが大戦終戦と共に弾け、深刻な不況に見舞われていた最中だったからだ。
金解禁に伴って正貨流出を防ぐ為に、緊縮財政が取られ国内はますますデフレ不況へと陥ってしまう。
濱口首相が凶弾に倒れ、続く若槻内閣も瓦解した後、後継の田中義一首相は、当時引退していた高橋是清を三顧の礼で蔵相に迎える。

若槻内閣が瓦解した理由は、当時の片山蔵相が、予算委員会で
「東京渡辺銀行が支払い停止になってしまった。」
と失言した事に端を発した「昭和金融恐慌」の始まりが原因だった。(実際はまだ支払い停止になっておらず、次官が渡したメモの情報が錯綜していたらしい。)
ショートリリーフとして蔵相に着いた是清の危機対応は、まさに「電光石火」だった。
就任直後に全銀行を二日間の自主休業にし、緊急勅令で三週間のモラトリアム(支払猶予令)を敷いた、その間に片面だけ刷った札束を用意し、自主休業明けの二日後には、各銀行の窓口にそれを積んで、預金者を安心させ、危機を乗り切ったという。

読書会で、池田信夫氏は
「とにかく、一番怖いのは取り付け騒ぎがあって銀行が潰れる事である。これが一番まずい。」
と言う。 その点から考えても、老いたりとは言え、高橋是清は最もクリティカルな所がよく分かっているのだと実感する。

その後、再び犬飼政権で蔵相に請われた際に、金解禁を停止して「金とのリンクを切り」ったり、次の斎藤内閣の時の「時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)」と呼ばれる、今で言う「地方景気対策の為の公共事業」も期限付きで導入(3年で打ち切り)するなど、必要とあらば、臨機応変に施策を断行するが、基本的には
財政は健全であらねばならぬ。地方は自活出来るよう努力しなければならないし、野方図に借金を重ねて軍備を拡張するのは言語道断である。
という考えの人だとよく判る。世界最速でデフレから脱却させた人物(リフレ政策の人)と言われがちだが、実情は池田氏も言うように、決して望ましいと思って行っている訳でない。
その行為(国債は日銀が引き受ければいいんだとか)だけ見て、拙速に事を考えると、この当時の教訓を見誤ってしまう。


最後の明治人
八十を過ぎて政界に身をさらす是清に、人は
「もうそのお歳なのだから、断られたらどうか。」
とすすめたらしい。彼は
「自分は死ぬつもりだ。」
と言ったそうだから、まさに身体を張って最後まで、財政の健全性を守ろうとした人物である。
老人に向って銃弾七発を浴びせ、即死した所にさらに斬り付けた反乱将校達は、自分達のした事の本当の意味を理解したのだろうか。
知ろうとしない、理解しようとしない事は時に恐ろしい結果を招くと、この読書会を通じて学んでいる。

2012年5月26日土曜日

アゴラ読書塾Part2第7回「東條英機と天皇の時代」保阪正康著 〜凡庸な独裁者?〜

読めば読む程、東條英機は誰の中にも居ると思う。
近代史の研究や著作と言えば、保阪氏の名前は必ず出て来る。これまで、半藤氏は読んだ事があるが、保阪氏は初めてなので良い機会だった。
単行本の上下巻を一冊にまとめた文庫版なのでとても分厚いが、前々回の「地ひらく」(福田和也著)と同時代を、東條を中心に描いているので、昭和初期の重層で複雑な状況がよく判る。(今回の読書塾はボリュームの多い物が続くので、咀嚼力が鍛えられる!)
レポーターの阿部氏はいみじくも、東條の『作られた時代』『利用された時代』『捨てられた時代』」と表現した。
彼はまさに時代に翻弄されてしまった人物で、この浩瀚(こうかん)な書物はそれを浮かび上がらせている。


偉大な父を持つ息子
本書は、東條家の成り立ちから始まる。盛岡藩に請われて東北へ能楽師として赴いた東條英機の曾祖父の代から同家の苦悩は始まる。支援者である当主の失脚や、維新の煽りを受けて没落した家から、英機の父である英教(ひでのり)は活路を見いだそうと、18歳で単身東京へ出て来る。(明治6年)
当時出来たばかりの「陸軍教導団歩兵科」に入って、一軍曹から軍歴を積み上げた叩き上げの人である。
明治と言えば「薩長閥」の時代。賊軍側とされた東北藩出身者は栄達の道は厳しく、英教が学んだ教導団は「士官学校」や「兵学校・兵学寮」よりも低く見られていた。
後に創設される「陸大(高級指揮官養成目的の大学)」の第一期生に教導団出身者からたった1人選ばれ(陸大一期生は総勢14名)卒業時には「成績一番」、軍人としての能力が最優秀であると証明する「参謀職務適任証書」の第一号という輝かしい「不滅の金字塔」を手にした人物だった。
この英教が、山縣閥が牛耳る陸軍内で、順調に出世を重ねるのは難しかった。実力一つでのし上がった彼は、あろう事か山縣に面と向かって、陸軍の人材登用の長閥偏重傾向に苦言を呈して左遷人事の憂き目に合う。
それでも、英教の才能を愛する先達や後進もそれなりにいて、冷や飯を食いながら、そのルサンチマンを息子の英機に注ぎ込んだ。東條にとって、父は物心つく頃から眼前に立ちはだかる偉大な岩だったのだろう。
東條は、両親にとって三番目に生まれた男の子で、上二人の兄は一歳の誕生日を迎える前に夭折している。石原莞爾の時も思ったが、明治期の乳幼児の死亡率の高さには驚かされる。生まれた子どもの半数以上が5歳前に死んでしまう(出典:「歴史人口学で見た日本」清水融著)のだから、現代とは随分死生観が違うだろうと思う。山縣有朋の子ども達も、成人出来た娘が一人というのだから、親の貧富に関係無さそうだ。

父親が果たせなかった思い、夭折した兄達の代わり、その重たい想いを生真面目に受けて育った東条英機に、痛々しさを感じるのは私だけでは無いと思う。
学校ではそれほど成績優秀で無く、ただただ「暗記」する事で何とか期待に答えようと必死に努力した。同時代の石原莞爾が「楽勝」で通過していく痛快さと比べると、後に満州で「上官(東条英機)」「副官(石原莞爾)」という微妙な関係で、互いに蛇蝎の如く嫌い合うのもしかたないと思えて来る。
「努力の人」vs「天才肌」は古今東西「上手く行かない組み合わせ」の典型で、小さな組織の中でやり合っている分には、周囲に格好の「酒の肴」を提供して他愛も無いが、影響が大きくなると笑い事では済まされない。

そもそも、東條英機と日本の不幸は
「このような、努力型で定見の無い凡庸な人が、軍人になるしか道が無かった。」
というオプションの無さにある。
「凡人がトップに立ててしまう日本の制度設計の欠陥」
が本書の最も訴えたい事であり、今回の読書会のテーマでもあった。
もし仮に、東條英機が軍人にならなかったとしても「第二の東條」が同じようにトップに押し出されてしまったであろう。
日本的組織の構造は、そんな性格をはらんでいる。歴史はそれを教えてくれていて、単に「戦争は悲惨だから止めましょう。」と表面的な事をなぞっていては本質を理解出来ない。
「戦争から学べるものは、意思決定の在り方なのだ。」
池田信夫氏の言葉は重い。


投げ出された権力の空白
東条英機は日米開戦時の首相であったが、彼は自発的に戦争を望み、権力の中枢にありたいと、のし上がったわけでは無かった。 言わば「たまたま」そこにハマってしまった感が強く、前政権の近衛文麿がもう少ししっかりと、国の舵取りをしていれば、、とか、陸軍のエース永田鉄山が惨殺されていなければ、、とか、数々の不運が重なった上に「危険な賭け」として「東條陸相を内閣総理大臣へ」というカードが切られた。

当時の大日本帝国憲法下では、総理大臣への指名は表向き天皇からの「大命」という形で下され、誰にすべきかは「明治の元勲(元老)」達の推挙によって決められて来た。
最後の元老、西園寺公望亡き後は、内大臣を務める人間が「何となく」その任に当たっている。そもそも「内大臣」は明治政府が発足した時に、功労者であった三条実美(お公家さん)の処遇に困って作られた「後付け的ポスト」で「天皇の相談役」という曖昧な役割だった。
それがいつしか「天皇への取り次ぎ」という性格を帯び、明文化された権限を持た無いのに、重要な役割を担って来る。

「東條の首相指名」に動いたのは、当時の内大臣木戸幸一(明治の元勲、木戸孝允の係累)が深く関与している。
東條は天皇への忠誠心が篤く彼が首相になれば、何かと「陸相現役制(陸軍大臣は現役武官が務めなければならない制度)」を盾に辞任をちらつかせて倒閣をほのめかす陸軍を牽制出来ると考えた。(昭和天皇はこの策を「虎穴に入らずんば虎児をえずだね。」と微妙な言い回しで誉める)
木戸は終世「自分が考えて天皇に進言した。」と繰り返していたが、作者の保阪氏はこの証言の裏に「昭和天皇の強い関与」があったのだろうと推測している。 池田信夫氏も「昭和天皇独白録」は非常にはっきりと関係者への好悪が語られていて、面白いと語る。

理系で生真面目な昭和天皇は、これまた事細かに報告をし、数字を諳んじる東條の事を信頼していた節がある。それまでの、陸相はいい加減に言い繕ったり、前に報告した事と辻褄が合わなかったりで、天皇は陸軍に対し不信感を持っていたが「東條なれば」とやや期待していたのかも知れない。その期待を震える思いで受けた東條は、その後、目も当てられない振る舞いへと転げ落ちて行く。

そもそも「与えられた仕事を正確にこなす」だけが得意な人間が、自分の能力を越えた権力を無自覚に握ってしまうと恐ろしい。
憲兵隊を手足のように使い、自分への不満分子がどこに居るのか猜疑心の塊になって探し出し、片っ端から検挙したり左遷したり、潰してまわる人事を断行し始める。
物資の枯渇が目に見えているのに、無謀に始めた戦争を「精神論」「英霊に申し訳ない論」で、ただただ時間を空費して最悪な状況へと押し流してしまう。
戦争が上手く行かないのは「作戦本部の怠慢」と、果ては参謀総長まで自分が兼任すると言い、強引に通してしまう。1人が多くの役を兼任しだす組織は末期的だ。
酷いエピソードは枚挙にいとまがないが、結局周囲に不満が蔓延し「東條外し」が画策され、東條は辞任へと追い込まれる。

詳細に見て行くと、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニとは随分違う。確かに、最悪期は非人道的な独裁者の感も否めないが、「確固たる思想(一歩間違うと危険な)」があって行動しているというよりは、ねずみが袋に入り込んで「わけが分からなく」なっている印象が強い。それを周囲は判っていながら、誰も何も出来無くなる。東條の向こう側に透けて見えるのは
  • 優秀な人材を潰しにかかる(主君押込
  • 小利口な人間は中心からすっと身を引く(強い中間集団)
  • 中心あるいは頂点を「空」にしておいて、責任の所在を不明確にする
という日本的集団の特徴だ。あの戦争ではこの特徴が最悪の結果を招いてしまった。

自分が受けて来た教育を振り返っても、この本質を学んだ記憶が無い。。。最も社会生活を営んだ事が無い学生時分に聞いても、実感を伴わないから、右から左へと忘れてしまっただろう。つくづく思うが、現役真っ最中に内省する事の大切さを最近強く感じる。


東条英機と石原莞爾の共通点
、、、などと言うものは無さそうに思うが、二人の伝記を読んで一つだけ、気になったのが、共に兵士に対する愛情の注ぎ方である。この場合、軍人として専門教育を受けた将校達では無く、徴兵された一般兵卒の事だ。

石原莞爾は晩年「兵は神だ」という深淵な言葉を残している。人の命を預かる将校は、これを心しなければならないと言いたかったようだ。
自分の連隊を持った時、微に入り細に入り、兵士の生活に心を配る姿は、東條にも見受けられる。最も、東條は石原ほど崇高な考えがある訳では無く、もっと素朴でプリミティブな感情に突き動かされていたようだ。
水と油ほどに違う二人が、共に心を砕いた「兵士=一般の人々」の存在はどんな意味があるのだろう。

二・二六を起こした青年将校達もそうであったが、日本人は「他者の感情」と「自分の感情」との隔てが薄皮一枚しか無い。
ヒリヒリと痛みや喜びを、センシィティブに感じ過ぎてしまうのは、この目まぐるしく変化する気候が育んだものなのだろうか?(山本七平曰く)
日本人は「いつものおなじみさん」が顔付き合わせて永く暮らして来たからか、 集団が大きくなり過ぎると、どうして良いのか判らず、結局「村の寄り合い」方式が通用する範囲に集団を小分けにして、それらが強い自律性を持ちはじめる。

この特性を理解しないと、どんな借り物のシステムを移植しようと思っても、結局根付かないのではないかと、最近気が付いた。

村落からこぼれ落ちてしまった労働力を、大正期の工業化が吸い込んで、安い大量の労働力として、戦中/戦後の復興期を支えた。(兵隊として、工場労働者として)
そこで使われたシステムは、軍隊でも工場でも、案外村落の共同体で育まれた意識とさほど代わりは無さそうだ。
そう思うと、最早「安い労働力」では海外の生産拠点に太刀打ち出来ない昨今、日本の産業構造はどうやって生まれ変わったらいいのか、改めて問題の難しさに立ちすくむ思いがする。

歴史のIF
「歴史に『もし』は許されない。」のだが、最後に少しだけ歴史の ifを夢想してみた。

東條英機がもし軍人にならなかったら、、、今ならさしずめ、メーカーの工場長だったろう。現にご子息は戦後、三菱重工業でYS11の設計プロジェクトを率いたエンジニアだ。緻密で手続き主義で、コツコツと精緻に積み上げる資質は、工業の世界でこそ遺憾無く発揮出来る。このタイプは、メーカーの「生産ライン設計管理」とか「品質保証管理」とかがぴったりで、間違っても総務や法令部門に行かない方が良いと思う。(総理大臣に座った時の東條の資質が出てしまい、社内は疲弊しまくり!!)
結局、戦争は回避出来なかったとしても、彼はもっと有意義な人生を送れたのではないかと思えてしまうのは、それだけ「東條英機」の中に我々自身を見いだしてしまうからだろう。

もう一つのifは、永田鉄山の暗殺が阻止出来たら、、だ。永田の事はまだよく勉強していないので、何とも言えないが、池田信夫氏も
「誰がどうみても次期陸軍大臣。」
と目された人物が、派閥抗争の末に惨殺されるというのは尋常では無い。
それだけ、時勢が不穏だった事を意味しているのだが、彼がどんな事を考え、存命だったらどう舵取りをしたのか、NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向ったのか」でも
「永田さんが生きていたら、あんな事にはならなかった。」
としみじみ証言者が語るのを聞くと、一時じっくり読んでみたいと思う。

さて次回は「高橋是清」
またまた、レポーターの役を仰せつかったので、大急ぎで読まなくては。経済音痴の私としては、どうしてもこの人は理解したい人なのである。来週を乞うご期待!

2012年5月20日日曜日

アゴラ読書塾Part2第6回「森のバロック」中沢新一著 〜南方熊楠 博覧強記異色の天才〜

24歳渡米した時のポートレートを元に作画。驚く程イケメン! 
毎回「噛みごたえ」たっぷりのお題本な読書塾であるが今回も、ひえぇの本である。池田信夫氏曰く
「そんなに難しいかなぁ、この文体は格好付けてるだけですよ。」
とサラリ言ってしまうのがさすがである。

著者の中沢新一氏は「チベットのモーツアルト」を1983年に発表して、メディアからは「ニュー・アカデミズム・ブーム」ともてはやされたらしい。
「チベットのモーツアルト」というタイトルを何処かで見たなと思ったら、うちの書棚に昔からあった本だ。夫の学生時代の荷物にあったもので「内容を覚えてる?」と聞いたら、
「全く覚えて無い。何が書いてあるのかさっぱりわからんかった。当時はあれでも読まないとインテリとは認められないから、格好付けてみた。でも、挑戦しただけエラいだろ。」
とのたまったので、なぁーんだみんな同じジャン!とホッとする。
色々な意味で80年代っぽい感じの書物だ。(「みんな、当然こんな単語知ってるよね。」の前提でバンバン学術用語が説明無しに続くので、辞書をひかないと文意をあっという間に掴み損ねる。)

とにかく根性で読通した感想は、文字だけで表現するとわかりにくいもの(例えばビジュアルとかミュージックとか)を無理に文字で表現していると感じた。なので、今日のエントリーは出来るだけビジュアルを沢山援用しようと思う。


南方熊楠の不思議
2012.05.18Google Top ページより。熊楠生誕145周年
熊楠(くまぐす)をどこで知ったのか、何かを読んだ時だったと思うのに、それが見つけられずちょっと気持ち悪い感じである。この「いつの間にか知っていた。」というのは熊楠らしい。読書会をした日が生誕145周年というのは恐るべき偶然だ。
彼の人となりを、池田信夫氏のブログが端的に語っているので、詳細はそちらに譲るとして、この「森のバロック」から受けた印象をいくつか述べたい。


大樹の子 熊楠
熊楠は、慶応三年(1867)江戸末期に生まれ、昭和16年(1941)日米開戦の年に亡くなっている。命日が12月29日なので真珠湾攻撃の報を聞きながら亡くなったのだろう。見事に時代の節目から節目へと生きた生涯だった。それなのに、この時代の王道とされた「末は博士か大臣か」のエリートコースからは早々に見切りを付けてドロップアウトしている。
大学予備門に合格し、同期生には正岡子規や夏目漱石らが居て、それだけでもとんでもない事なのだが、学校が大嫌いで二年後には中退してしまう。
父親に懇願して、私費でアメリカ留学をしたのを皮切りに、キューバからロンドンへ渡る。途中、恐慌のあおりを受けて実家からの送金が滞り、時にジプシーと一緒に放浪したりもしたそうだ。語学のセンスが良かったのか、先々の言葉を会得して18〜19カ国語も操れたというのだから、恐るべき頭脳の持ち主だ。雑誌ネイチャーへの論文掲載(池田氏によれば『コラム的』性格の論文だったらしいが)記録はいまでも破られていないらしい。
NHK「日本人は何を考えてきたのか」より
丁度、今年の一月に「日本人は何を考えてきたのか」という地味ながら興味深い番組が放映されていた。その中で熊楠が取り上げられている。(左図)
 田中正造と合わせた扱いだったので、内容はやや薄めになってしまうものの、熊楠が終世暮らした和歌山県田辺の映像もあり、直筆の書簡が紹介されたりもして、熊楠入門にはうってつけだ。
熊楠は「エコロジー」という言葉を初めて日本に紹介した人物とされているが、彼の言うエコロジーとは
「自然と人類は一帯のシステムである。」
というものだ。ともすると「守らねばならないひ弱な自然」と思いがちな昨今のエコロジー感とは随分と違う。本書「森のバロック」の冒頭に印象的なエピソードが紹介されている。
「(熊楠が)四歳で重病の時、家人に負われて父に伴われ、未明から楠神へ詣ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の木を見るごとに口に言うべからざる特殊の感じを発する」(「南紀特有の人名」)
モチーフが宮崎アニメを彷彿させた
熊楠が生まれた南紀州の故郷では、楠の巨木をご神体に祀った神社があり、重篤な病を患った熊楠が、巨木に平癒してもらおうと、願掛けに連れて行かれた時の様子である。かれの「熊楠」という名前も、この御神木から付けられている。この話を聞いてすぐに思い出したのが、数年前に話題になった、映画「アバター」である。
「樹木に平癒してもらう。」
というモチーフは、映画後半のクライマックスに出るシーンだし、さらに踏み込むならばこの映画全体が、日本の「宮崎アニメ」の影響を色濃く受けていると感じた人は多いだろう。
(Googleで「アバター/宮崎アニメ」と検索するとわんさか記事が出て来る)



大地と人間は決して切り離せない、聖なるものも、俗なるものも、それは全てが渾然と一体化している。。
と熊楠は言いたかったのかと思うが、そもそも、陳腐な言葉の羅列ではとても太刀打ち出来ないのが、自然なのである、、と感じた。


南方曼荼羅
熊楠が記した「科学的方法論の曼荼羅図」
この、書き損じのような「ぐちゃぐちゃ」っとした図が「南方曼荼羅」と言われているものだ。何だかさっぱりわからないというのが、本音であるが、本書の中で熊楠が唯一「まともに結論まで書いた論文」として紹介されている「燕(つばめ)石考」の解説と合わせるとやや理解出来る。(第三章:燕石の神話論理)
この部分だけは、他の章よりも読み易く面白かったので、おすすめである。

南方曼荼羅は、多数のコード軸(思考の軸のようなもの?)を複雑に組み合わせて、その間に生ずる「類推(アナロジー)」を使って大きな変換体系を作ろうと試みたらしい。

「燕石」という燕が巣の中に持ち込む石に関する、言い伝えや神話/伝説とそれに関係しそうなエピソードを組み合わせて、次々と話が縦横無尽に展開して行く。
  1. 燕がある特定の石を海辺から運んで、その中にしまっておく。
  2. その燕石は、ひな鳥の目の病気を直す力を持っている。
  3. 燕石を身につけた女性は、安全に子どもを出産出来る。ほかにもこの石にはいろいろな医療効果をもつ。
  4. 燕は「燕草(草の王:セランダイン)」と呼ばれる植物を使って、子燕の眼病を治す。
  5. それとは別に「石燕」と呼ばれる民間医療用の石がある。これは実際にはスピリフェル種の腕足類の化石で、その形は燕の飛ぶ姿に似ている。この石は酸性の液体に入れると、生き物のように動きだし、まるで両性が愛の交歓を行っているようにみえる。
  6. 「眼石」と呼ばれる、眼の病気を治すための民間医療用の石がある。これは貝類の「へた」にほかならず、「石燕」と同じように、酸性液の中でエロティックな運動をする。
  7. 燕石は、鷲がその巣の中に大切にしているという「鷲石」とも深い関係がある。この鷲石も女性の出産を助ける魔力を持つと言われている。またヨーロッパの伝承世界の中では、鷲と燕は深い関係をもっていると考えられていた。
何だか、ちょっとづつは関係ありそうだけど、明確に因果関係があるとは言いがたい要素である。でも、それぞれが「おや?」と興味をひく「地下的な魅力」に富んでいないだろうか。(この話がどう展開していったのは、とても語り切れないのでごめんなさい。)

熊楠は、後に民俗学の権威とされる柳田国男とも、往復書簡で激しく議論をしている。
著者一流の小難しい言い回しで、かなり理解しずらいが、乱暴を承知で噛み砕いてみると、柳田は「民俗学の中から『制度』をあぶり出したい」と願い、「俗なもの(エロス)」を見ようとしなかった。熊楠は「それは違う。」と言い、むしろ「それが(エロスが)主たるものである」と言いたかったらしい。
彼の残した膨大な書き付けは、余白までびっしりと言葉や図で書き尽くされ、話は猥談をしていたかと思えば、いきなり難しい論文調のものになりと、脈絡無く続くと言われている。その有様こそ「自然なのだ」と彼は言いたかったのかも知れない。


誰も注目しなかった粘菌
熊楠が生涯をかけて研究を重ねた粘菌
そして、熊楠が生涯をかけて研究していたのが、粘菌である。(変換すると先に「年金」と出てしまうのが昨今の悲しさ。)
何と、昭和天皇もこのマイナーな生物「粘菌」の研究者で、熊楠が晩年、若き昭和天皇にご進講をした事は有名なエピソードである。(うる覚えだが、天皇の事を「おいおまえ」と呼び捨てにしたとかしないとか。。)
キャラメル箱に入れた粘菌の採取サンプルを110個献上し、周囲は「キャラメルの箱なぞ!」といきり立ったが、昭和天皇は「このままで良い」と不問にしたのもなかなか面白い。
本書では一部カラーページになって、粘菌の事が紹介されていたが、最近はもっと凄い図鑑があるのを発見!
表紙の絵を見ただけでもゾワッと来てしまうが、カラフルで様々な形態をしたこの生き物は、摩訶不思議である。
図鑑の中身はもっと凄いらしく、見た人は日本人ならば、知らない人は居ない、有名な作品を思い出すだろう。


風の谷のナウシカ(原作版)
熊楠を知ってもう一度読みたくなる。
本書を読んでいる途中から「これは風の谷のナウシカだ。」と直感した。映画版では無く膨大な時間を使って描かれた、漫画原作版の方だ。
特に、ナウシカで描かれた「腐海(ふかい)」はその描写が限りなく「粘菌」の様に近く、原作版では「腐海」は意志を持っているというような描かれ方をしている。
最近の研究でも、粘菌が迷路を最短ルートを使って餌に辿り着く実験がされたりして、なかなか興味深い)

映画では、尺の関係からその部分の描き方が弱く、「善悪の単純な二項対立」のように見えてしまうが、原作はもっと複雑で、物語の結果も深い。
(宮崎監督は映画版が非常に不満で、鈴木プロデューサーの目の前で分厚い台本を引き破ったそうだ)
借りて読んだので、手元に無くうる覚えであるが、クライマックスのエピソードは、熊楠が言う所の「エコロジー」とは何かを、真摯に捉えようとして、宮崎氏の筆が苦悩しているようにも思えた。
網野善彦の時も感じたが、この「メインじゃないグループ」(※)が持つパワーは、日本のサブカルチャーに多大な影響を及ぼしているとつくづく思う。

池田信夫氏も「熊楠とアートは親和性が高い。」とコメントされ、日本人のポテンシャルと言っていいのかも知れない。(構造的に弱い弱点はあるものの)
この不思議な、超人の事はまた考える機会がありそうだ。

※本郷和人先生(@diamondfloor41)曰く、網野善彦は中世学のマイナーどころか、最早メジャーだそうですが。。