2011年12月26日月曜日

ドラマ坂の上の雲「日本海海戦」〜司馬さんはなぜ映像化を拒否し続けたのか〜

連合艦隊解散の辞
3年に及ぶ「坂の上の雲」が終わった。
昨日の最終回「日本海海戦」は出色の出来だったと思うし、同時にとても考えさせられる構成だった。

今回のドラマは、今の時点で望みうる最高のリソースを投入して作られたと思うし、これ以上には出来無かったろうと思う。(脚本/予算/技術/演技陣全て)

VFXの技術は驚くべき水準で「作り物」と思わせない表現力で、日本海海戦を目の前に再現してくれた。
リアリストの司馬さんもきっと満足されているのではないか。

しかし、昨日の放映を見ながら
「ああ、司馬さんが映像化を避けたのはこれだからかな。」
とちらっと思った。
一緒に見ていた子ども達が、日本海海戦が終わった後、急に興味を失ってソワソワと動き出したからだ。
子どもはとても正直だ。まして歴史の基礎的知識がまだ無いから、プリミティブな反応を示す。

悲惨な旅順攻略や、パーフェクトゲームと称される日本海海戦は、下知識が無くても「血沸き肉躍る」内容に刺激されて、注目を集める。その事だけは凄く知りたがるが、本来、昨日の後半30分に込められた思いが重要で、そこを忘れてはいけない、、、と、静かに伝えられる大人が周囲にどれだけ居るか。。。等と考えてしまった。
(小三の息子は「なぜ、二○三高地が必要なの?」とか「T字戦法って何?」とか、やはり興味津々である。)

懸命な制作陣達の頑張り
「あれほど、映像化は司馬さんが嫌がったのに。」
という声を十分に意識しながら、制作に関わった人達は細心の注意を払った事がよく判る。
エンドロールの「原作」欄で「坂の上の雲」と並んで「雑貨屋の帝国主義」という文字が流れていたのに、お気づきの方は居るだろうか?
「この国のかたち」第一巻の三回目に出て来る随筆からも引用しているという意味なのだが、この回のみならず、シリーズを通して「坂の上の雲」以外からも、多く引用されていたのが今回のドラマだった。
原作に忠実に、そして、作者の本意を懸命に汲み取ろうとする制作陣の誠意を感じる。

ポーツマス条約に抗議して民衆が暴徒化した「日比谷焼き討ち事件」もきちんと時間を取っていた。通常の歴史の授業では、全く注目されていない(と思われる)事柄であるが、司馬さんは
「あの事件を起点にその後40年、日本は坂道を転がり落ちてしまった。」
と語る。実は小説を読んでいても注意しないと素通りしてしまう記述なのだが、
  • メディアが煽り
  • 実情(戦争が継続出来ない逼迫した状態)をつまびらかにしない政府
  • 熱狂的に一方に流れてしまう民衆
 という、「あれ?つい最近どっかでも聞いたよな。」と思いたくなる日本人の「癖」(と言っていいのかどうか)を冷徹に見つめて、何度も文章にしていたのが、司馬さんなのである。

成功体験からも失敗体験からも学べない日本人
「人間とは度し難いものだ。」
晩年の司馬さんは、よくカラリと語っておられる。
それを宮崎駿監督は「乾いたニヒリズム」と称して敬愛している。
「日本人には普遍的思想は生み出せない。普遍的思想が生まれるには地理的条件が必要で、広大な土地に、複数のグループがひしめき合い、時に血を流し合いながら摩擦を経なければ、そのグループの垣根を越える普遍的思想は生まれない。日本はそんな条件に無いし、又その事を必要以上に恥じる必要も無い。」(「この国のかたち」第一回目より意訳)
「雑貨屋の帝国主義」を読み返そうと思って、ふと目にした最初の章にこう書いてあった、読んでもすっかり忘れているんだから、本当になさけ無い。

必ずしも「普遍的思想に縛られている」事が良いわけでは無い、無いからかえって幸いする場合もある。。と司馬さんは言いたいのだと思う。(たぶん)

過敏に反応して、うわぁ〜〜〜っと興奮し、バタバタっと作ってしまえる強さもある一方、システマチックに系統だったログ(記録)を残さないで、その場その場で対処して、後は綺麗さっぱり都合の悪い事は忘れ、良い事だけを美化して、それに捕われてしまう。

昨夜、Twitterで與那覇先生(@jyonaha)ともやりとりさせて頂いたが
失敗したら学ぶ気が起きない。上手くいったら、もう学ぶ必要がない」が典型的日本人(@jyonaha)
という名台詞を頂いた。。。


苦しかった満州での力戦から何も学ばず、貧しい兵站、悲壮感漂う勇敢な現場に頼って、大量の餓死者を出した太平洋戦争の南進。

ヨチヨチ歩きの日本騎兵の実力を良く知った上で、機関銃を上手く手配し、「兵器の混成隊」という新しい発想を秋山支隊で好古が実行したのに、その優位性を理解せず、逆にロシアが数年後に「ノモンハン事変」で実現させてしまった皮肉。

自分達が真珠湾攻撃の時に飛行機を多用した癖に「日本海海戦」の成功体験が忘れられず、「艦隊決戦」思想が抜け切らないで、占領した島嶼を「航空拠点」に出来なかった(艦隊補給拠点としか考えて無かった)海軍。

「バカじゃねぇの。」
と懐手にせせら笑うのは簡単だが、じゃあ、我が身を振り返って、きちんと学んでいるのか?みんながうわぁ〜っと流れている時に、杭の様に進言出来る勇気があるか?と問い直すと、甚だ心もとない。
戦争こそしていないけれど、仕事上で思い当る事は沢山あると自省するばかりだ。

勝って兜の緒をしめよ
さて、最後にもう一度ドラマに戻ろう。
真之や、好古の最後まできっちり描いた所も好感が持てた。
特に兄弟で釣りをするシーンは「第1回少年の国」の子役が見せた素晴らしい演技(特に好古の子が良かった!)を何だか彷彿とさせて、阿部ちゃん、モッ君それそれの向こう側に、ありし日の少年達の姿が垣間見えて、「さすがドラマのNHK!テクニックが違う!」と思う。

そして、一番秀逸だったのは「連合艦隊解散の辞」
「ほれ、ここ大事だから聞いとき!」と唯一、子ども達に促した所で、渡哲也はやっぱりいいわぁ、、と思う。あの渋い声で読み上げる名文はたまりませんね。

「通るちゅうて、通る。」(ああ凄い!)
渡さん、寡黙な東郷を見事に演じてました。

ちなみに、東郷は昔は「おしゃべりが過ぎる」と称されている記録があって、決して寡黙な人物では無かった模様。
26歳で英国に留学した時の写真が最新の文藝春秋臨時号に掲載されているが、目のクリクリっとした利発そうな若者で、なかなかの美男子である。
本当なら英国海軍兵学校に留学したかったが、さすがに軍部の奥座敷には入れてもらえず、商船学校で18〜19歳の少年達と学んでいる。
街道ゆくの「アイルランド紀行」だったか、司馬さんはこの東郷が留学した商船学校を訪れて、東郷の学業成績も見ている。

薩摩の「兵子(へこ)教育」は「ウドさぁになる」と言われていて、意味は
「リーダーは意識して『ウドの大木』になって下に任せる胆力を養うべし。」
という事らしい。
有り余る才能を押し殺して「口は出さず、責任は取る」の姿勢を貫けるよう、訓練する。
陸軍の大山巌も、日露戦争後
「一番辛かったのは、知ってる事も知らないふりをする事だった。」
と語っている。本当は切れ者の実務者なのに、児玉達に預けきっていたわけである。

このドラマを見た人のうちの何割かが、興味や疑問を持ち、少しづつ自分達で考えたり調べたりし始めたら、、、悲しき日本人の「癖」がいくらかでも良い方向に向うだろうか。

さて、我が家もそろそろ年末の大掃除に取りかからなくてはならない。
振り返れば、優秀な現場である長女と次女が、昨日までのクリスマスツリーやら飾り付けを綺麗に片付けている。(ありがとう!)

さあ、Z旗を揚げようか。

「拙宅の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」

そうそう、打ち方止めの伝令が艦内を走った時の、兵士みんなの顔がホッと緩む所も非常に良かった。その点でも丁寧に作られたドラマだったと思う。

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