2011年12月20日火曜日

ドラマ坂の上の雲「二○三高地/敵艦見ゆ」〜司馬遼太郎の戦争体験〜

力戦の二○三高地

敵艦を最初に確認したのも二○三地点。歴史の不思議
ドラマ「坂の上の雲」が佳境に入っている。前回の二○三高地は二度観たが、最後の力押しの突撃には涙が出てしまう。スタッフが
「参謀本部だけの描写にしたく無かった、一人一人の兵士の群像として描きたかった。」
と制作ブログに書いていたが、その通り、見事に描けていたと思う。

あの山を取る為にどれだけの同胞が土に埋まったか、「戦(いくさ)」とは震えが来る程に怖くて寒くて、まさに「庶民にとって重たい国家」であった事が映像からリアルに伝わる。

司馬さんは、第二次大戦中、学徒出陣で兵隊に取られ、満州の士官候補生養成学校に入れられた事は有名である。折々、戦争体験に触れるが、まとまった形で著書にしていない。
先日読んだ対談集の中で大岡昇平さん(「レイテ戦記」の著者。レイテに出征して捕虜になる)との対談で
「語る程の話が無いのです。」
と言っておられた。別の所には
「自分なぞは、軍隊という真綿の中でぬくぬくと温存してもらった感があり、むしろ少し下の世代(昭和の皇国少年)の方が過激に傾倒してしまった先生達にいじめ抜かれて非常に気の毒な経験をさせてしまった。」
と気使っている。
「司馬遼太郎は、陸軍の陰湿で古色然とした石頭体質を嫌い抜き、スマートな海軍を「贔屓」した。」
と、よく言われるが、これは浅い見方だと思う。確かにその傾向はあったけれど、嫌い抜いた陸軍に「日本人」の拭い難い体質を見ているし、一見スマートな海軍にも、その後の体たらくーー「栄光の勝利者のイメージを捨て切れず、昭和では時代の趨勢を読み損ねて、長大な戦艦を持ち続けた。」と鋭く指摘している。
私が、読んだ範囲では陸軍に対する愛憎入り交じったものを感じられるし「経験した人は違うな。」と思えるドキリとする事をさらっと書かれる。「一言で片付けられる程、簡単なものじゃない。」と思うのだ。

「どんなに臆病な人でも、一年もしつこく『突撃』訓練を積むと、号令で身体が前へ出てしまう。」
「日本の兵隊さんは強いとよく言われたが、横の意識があって前で飛び出して行くのだ。横の意識とは、共に並んでいる仲間達の事だ。」
「農民をそのまま集めただけの兵隊は、いざ戦闘が始まると、怯えて散を乱して逃げてしまう。訓練で人間をいくらでも鋳型にはめる事が出来ると知った。」
対談をしていた大岡さんも
「捕虜に掴まった時、一人だったから抵抗しなかった。もし、もう一人でも同僚が隣に居たら、それは「隊」になるので、抵抗した挙げ句、死んでこの場に居なかったかも知れない。」
「捕虜になって数ヶ月すると栄養状態が良くなる。そこへジャングルで掴まったばかりのガリガリに痩せこけた同僚が新たに加わると、何となく奇異な目で見てしまう。」

あの時代を経験した世代は、くどくど言わずともすぐに判り合える共通認識があったのだろう。短いエピソードの集まりだが、その一つ一つの簡潔な話に「リアルな人生の息づかい」が感じられる。

実際に戦争へ行った世代は、もはや少なくなって知らない世代ばかりになってしまった。経験が生々し過ぎて、私の祖母などは話したがらなかったのを覚えている。強烈な経験をしてしまうと人間は反動で忘れたいと願うバイアス心理が働くのでは無いか。。

2011年3月に起こった東日本大震災も、少し遠い記憶に置きたい、、という心理が、今、感じられる。「物憂い」と言って良いのか。
記憶が新しく、人々がアドレナリンに翻弄されている渦中では、関心も高く一種の高揚感に包まれてしまうが、そんな状態は長く続けられない。
「何となく潮が引くような感じ」で収束して常態に戻したいと人は思うらしい。
「世の中そんなもんだ。」と認識しながらも、「次ぎ何かあった時に。」とそっと布石を打っておける人は、真に屹立していると思う。

司馬さんが「坂の上の雲」を書いたのは、後世に屹立した指標を残しておかねばと思ったからなのだろう。近年発見された新事実があったとしても、この小説に描かれた人間の集団の本質に対する鋭い洞察はいささかも衰えを見せていないと私は思う。むしろ、「国家」とそれを「構成する一員」という感覚が曖昧な現代において、自国と世界との関係をしばし熟考するきっかけを与えてくれているのではないか。40年近い歳月が経っても色あせない輝きがあるのだから、つくづく凄い才能の持ち主だったと思う。

さて、今週末はいよいよクライマックス最終回である。

0 コメント:

コメントを投稿