2011年9月2日金曜日

「誰もが書かなかった日本の戦争」田原総一郎著

一人称の文体はとても読み易い。この本は中1の娘にも薦めようと思う。第二次世界大戦を描いた書物は多くあるが、2000年代に入った頃から、少し冷静な事実分析の書物や論調が出て来た様に思う。

私が小学生だった頃は、まだベトナム戦争中で、学校の授業でも
「日本は平和ですね。今、こうしている瞬間にも、世界では戦争で苦しんでいる子供達が居ます。戦争はいけません、軍隊は駄目です。」
が正論であり、唯一無二の真実である!以上…。だった。(今だって平和が尊い事に変わりありませんが。もちろん戦争反対。)

「満州事変」「日中戦争」「五.一五事件」「二.二六事件」「日独伊三国同盟」「日ソ不可侵条約」言葉は知っているし、それが何だったか、試験で問われて解答欄にスパッと書く事は出来ても、上っ面の事象を点でしか知らなかった。(自分の知識がその程度だという自覚だけはあったけれど。)

そして、情緒抜きには語られない話題でもあった。
「はだしのゲン」「ガラスのうさぎ」「猫は生きていた」、祖父母は戦中に子育てをした世代だったし、朝ドラのヒロインは永らく「復興の中立ち上がるヒロイン」がお決まりの型だった。(現代でもそうか!「ゲゲゲ」も「おひさま」も…)

この、田原総一郎著「誰もが書かなかった日本の戦争」は、中学生でも読めるよう、キチンと注釈を付けながら、平易な語り口で、明治維新から終戦までを描いている。
注釈を巻末や、章末にまとめず同一頁内にレイアウトしているのは好感が持てた。子供がしっかり細部まで噛み砕いて理解するにはこの方が良い。(エディターさんに拍手!)

猪瀬直樹氏著「昭和16年の敗戦」や、加藤陽子氏著「それでも日本人は戦争を選んだ」と並んで、これから歴史を学ぶ人にはお勧めの本である。
以下、印象深い内容をトピックで。。。

伊藤博文と世代間抗争
私の年代だと、伊藤博文は「千円札の人」で馴染み深いが、今はそれを知らない世代も多い。また、韓国の青年達に、今だ嫌われている人物(韓国総督府初代統監)だが、田原氏は、その人物に焦点を当てている。

伊藤博文が若き日に学んだ松下村塾の師匠、吉田松陰は「周旋家」と伊藤の事を評している。司馬さん曰く、これはあまりいい意味の言葉では無く、伊藤自身もそう評された事を苦々しく思っていた節があるそうだ。(後年、松下村塾の話しをあまりしたがらなかったとか…)
だが田原氏は、この松蔭が見抜いた「伊藤の美点(と、あえて言おう)」あったればこそ、あそこまでの仕事を成したのだろうと書いている。

日露戦争開戦の時、伊藤は最後まで、明治帝と共に開戦に反対した。この下りは「坂の上の曇」でも詳しいが、田原氏はこの時を「維新一期生(伊藤)」と「二期生(桂太郎首相/川上操六陸参)」の世代間抗争だったと表現した。これは秀逸な分析で、坂の上ではそのデティールがややボヤけている。

「伊藤には、身体の中に馬関戦争の頃の砲弾の音が深く刻まれており、その点政治家としての感覚を外さなかった。」(坂の上の雲より)

という有名な下りがあるが、その意味がようやく分かった。
伊藤は、開戦にも反対だし、韓国併合にも反対(韓国に近代化して欲しいとは思っていたが)だったが、どうにも覆せないとなったら「私見」では無く、国を代表する者としての発言をする。その姿勢が「周旋家」だと田原氏は言う。日露開戦を巡って山縣との政争に敗れる形で、閑職(枢密院議長)に追いやられた伊藤は、その後、韓国統監の職に着く。これも「親韓派」の自分では無く、別の人間が行ったらもっと酷い事になるだろうと判断したからだと言う。

そういえば、且つて、名シリーズ「NHK 映像の世紀」で、伊藤博文の大磯別邸で、韓国の幼い皇太子(後に日本の皇族女性を妻に迎える)を養育している映像が流れていた。体のいい人質であるとも言えるが、私邸で大切に、しかも当時としてかなり開明的な環境で、皇太子を育んでいる行為が、彼の半島に対する思いを物語っているように思える。
しかしながら、就任した伊藤は、韓国の強い反日運動に晒される。このあたり、立場の辛さである。最後は、統監退任後の1891年にハルピンで韓国独立運動家の安重根に暗殺されてしまう。

5年前山口県の萩を訪れた事があるが、伊藤博文の生家と晩年首相になってからの邸宅が二つ並んで保存されている史跡に行った。
生家は本当の掘っ立て小屋で、土間と小さな板間が幾つかある程度、びっくりするほど粗末だった。ここから、松下村塾村塾(簡素だけどそれなりに大きくて立派)へ通った農家の少年が、怜悧でかっこイイ上世代--高杉晋作や桂小五郎をどんな思いで見つめていたのだろうかと思う。転じて、邸宅はなかなか立派で、贅沢な建物だが「公的」なスペースの方が大きく、プライベート空間は
「この位なら許されるかぁ。」
という可愛げを感じた。この時代の人達は多くの仲間の血の上に、今の自分がある事を骨の髄から知っているから、何処かで抑制が効くのかも知れない。

伊藤博文は大変な女好きで、そちら方面は派手だったという。彼を主人公にした歴史小説を聞いた事が無いのだが、今一つヒーローというには、下世話な所があったり、やや、つまらない男という印象を持っていたのだが、田原氏の記述を読んで
「それでも、エラく頑張った人なんだなぁ。」と再認識した。

近衛文麿と松岡外交
本書の多くは、昭和初期の動乱期にページを割いている。
様々な人物が登場するが、焦点を当てているのは、近衛文麿と松岡洋右の二人。
開戦当時の首相である東条英機よりも、その前に長く政権を担っていた、近衛文麿に、田原氏の視線は向かう。

一時ベストセラーになった「白洲次郎 占領を背負った男」がNHKでドラマになったが、ここで、白洲は近衛に向かって
「貴方は、軍を利用して避戦にもって行こうとおもっているのだろうが、やり方が中途半端なんだ。」
と詰め寄る。ドラマではどう中途半端なのか描かれていないのだが、田原氏は「ここぞと言う時」の判断に甘さがあったと指摘する。

近衛は、五摂家出身でインテリであり、当時は絶大な期待を持って迎えられたが、
「苦労知らずのお坊っちゃまだから、ギリギリの踏ん張りが効かないのか。」
と田原氏は評する。
、、、どっかでも聞いた記憶が、、
地生えの叩き上げのしぶとさ、という点を伊藤博文と比較したのかも知れない。

そして、外交の失敗である。
日米関係がおかしくなり始めた頃、外相の松岡は日独伊三国同盟野約束を取り付けて意気揚々と帰国するが、そこで「日米諒解案(駐米大使野村と米国ハル国務長官との間に交わされた合意の叩き案)」なる物が進行中と知り、大反対して潰してしまう。

「アメリカの言いなりになるな、あの国は理解していると見せかけて、腹の底では相手を軽蔑して、結局、自分達の思い通りにするんだ。」

アメリカで育ちで誰よりもアメリカ通だった松岡は、非常に饒舌家でリベートでは他を圧倒したと言う。
実は、この著書で描かれる松岡像と、私がそれまで読んだり聞いたりした内容とが、微妙にニュアンスが違うと感じた。
東大の加藤陽子氏は著書「それでも日本人は戦争を選んだ」で、松岡も決して開戦を望んだ訳では無く、国連に出向いた時は「避戦」が至上命令だったのに、渡欧中に中国で陸軍が軍を動かしたりする等「後ろから撃たれる」状況があって、止むに止まれず、破れかぶれであの脱退演説に至った…的理解だった。そのあたり、もう一度「それでも〜」やNHKスペシャル「なぜ日本人は戦争をしたのか」を再読/再視聴しようと思う。

松岡洋右にどこまで責任があったのか、少し脇に置くとしても、決定的にまずかったのは当時の外交チームの情報収集能力の低さと相手の事情を斟酌する、洞察力の鈍磨である。

司馬さんは、アンチ派から『明治は偉い、昭和初期は駄目。の固定観念を植え付けた』と揶揄されるが、私はやっぱり司馬さんの言う通りだと思う。

加藤周一氏は晩年の映像で
「明治の人間は現実的判断が出来た。極めて不愉快だが、そうしなければならないのなら、現実的選択をした。三国干渉なんぞは、無茶苦茶な言い掛かりだけれど、三国相手に喧嘩は出来ない事をしっかり理解していた。」
と語っていた。

日露開戦時、大山巌は留守役の山本権兵衛に
「軍配の挙げ時をよろしく頼みます。」
と言い残して、中国の戦線へ出発した。
仲介役はアメリカをアテにしていた。日英同盟による有利さ、欧米諸国は日本がロシアの相手をしてくれると都合が良かった、、等を読んでいた。昭和のそれと比較すると、苦労人らしい大人の判断が、垣間見える。それでも、自国の力が貧弱である事は充分自覚していた。坂の上を読めば、如何に懐が苦しかったか、薄氷を踏む展開の連続だったかが解る。(戦争公債をよく売れたなと思う)身のほどを知りながら、クタクタになって判定勝ちに持ち込んだ。。それが現実だったのだと思う。

NHKが特集していた「シリーズ:日本人はなぜ戦争へと向ったのか」 を観ても、あの悲惨な戦争に転がり込んでしまった原因は一つで無い事が分かる。誰か少数の人間が意図した訳でも無く、小さな判断ミスや肥大化した組織のセクショナリズムが、大きな利益よりも、ごく小さな自分達の益を追ってしまう事が積み重なった。

何で、こんなにあの当時の事が気になるのだろうと最近思う。
過去の成功体験に捕われた判断ミス、機会損失、情報収拾能力の低さ、感度の鈍さ、つまらないプライド。時代は違うが、今に重なる所が多い。今、漠然と感じている危機感と関係あるのかも知れない。

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