2011年9月23日金曜日

食に対する難しさと奥深さ

極上のサラミと味わいまろやかなブリーチーズ(DEEN&DELUCA)
 仕事で、 DEEN&DELUCAにお邪魔する機会があった。お洒落な輸入食材屋さんである。
カフェでお茶を飲んだり、ランチボックスを食した事はあるが、基本的にお値段高めで、なかなか庶民の手には届かない。

しかし、丁寧に手を掛けて厳選した食材は味が違うとよく判った。都心に住んでいると、こんな贅沢な食材が気軽に手に入るんだなぁとひとしきり関心する。毎日ここの総菜で、、という人は稀だろうが、滅多に都心に出ない身には新鮮な体験だった。

乾燥ペン(リングイネ?)はオーバーボイル気味に
 さて、ひとしきり感化されると、この感動を家族にも少しお裾分けしたくなった。
お店の人にアドバイスをしてもらいながら、連休中のパスタランチ用に、食材を少し奮発して買った。普段買う値段の4〜5倍はするカラフルペンネと、キノコクリームに使うペースト一瓶。
アドバイスしてもらわないと、どう調理して良いか判らない代物だが、季節のキノコをたっぷり使った生クリームソースが良いと教えてもらう。ペンネの色、形が様々に入っていて「これは子どもが喜ぶかな。」とワクワクしながら買ったのだが。。。
最後に簡単に作り方を記しておきたいが、今日のエントリーの主題は「この料理がとてもウケて、美味しかった」という所では無い。(もちろん美味しかったんだけど)

一目見るなり四歳児は拒否!でも味は抜群だったのよ。。
お店に人に「ペンネはどうしても芯が残って堅くなるので、オーバーボイル気味がいい。」とアドバイスしてもらい、かなり上手にボイル出来た。(表示時間よりも+5分)でも、出来上がったこの皿を見るなり、四歳の末っ子は食べるのを拒否。
膨れ上がったペンネがグロテスクに見えたのだろう。乾燥した時の可愛らしさは無くなって、 何だか大きな物体がゴロゴロ。パスタは大好きメニューなのに、いくらパスタだと説明しても全く食べなかった。まあ、残りの家族は美味しい、美味しいで完食してくれたので、大多数の支持を得た訳だから、良しとしなければならない。
子育ての料理の難しさがここにある。
経験者であれば、痛いほどわかると思うが、授乳期から離乳食/普通食へ離陸する時の難しさは筆舌に尽くしがたい。私の経験では「手を入れ過ぎても、手を抜き過ぎてもダメ。」である。
懸命に作った料理を一口も食べないで拒否される事など、子育てではザラで、ここで怯んではいけないのである。硬軟取り混ぜて、粘り強く「味」に対する経験値を広げるのが、地味だけど王道なのだ。

かれこれ10年以上母親業をしていると、もう炊事は「うんざりルーティン業務」である。早く自活してくれないかなぁと指折り数えてしまうし、休日の食事作りは一番グズグズとやりたくない家事となってしまった。
これでも若い頃は、料理が大好きで、張り切って作ってしまう、独身男性が見たら「ドン引きしてしまう女」だったが、その厭わなかった私ですら「もう作り無く無い。」のだから、食というのは非常に業が深い。

徹底して手抜きをしようと思うけど(そうでないと、毎日身が持たないので)どこかで越えてはいけないと思っている「一線」がある。
中一娘のお弁当は、やっぱり作ってやらなくちゃと思うし、コンビニや、ほか弁、カップヌードル、菓子パンだけで一週間の食事を回す事に、どうしても抵抗を感じてしまう。
文句を言いながらも、手づくり食にこだわった母に擦り込まれた「ジェンダー規範」なのかも知れない。
もちろん、ファストフードはあった方が良い。ありがたいと感じる人は多いだろうし、カップヌードルは日本が生み出した誇れる食材だと思う。気を抜きたい時のかけがえの無い友である。

この所、善くも悪くも「慣れ」てしまっていたから「この取り揃えなら及第点だろう。」という勘所が判ってしまい、食卓がマンネリだった。そして、久々に食らった「飲食拒否」の反応に少し目の覚める思いがした。拒否されるのが面倒なので、最初からYesと言いそうな所ばかりを狙っていたなと、反省しているのである。
姉兄に比べて「食わず嫌い」の傾向が強い末っ子のケアが足りなかったなと気が付いた。どうしても上二人がパクパク食べるから「そのうち食べるだろう。」と呑気に構えてしまっていたが、「私の事を見てくれ。」というサインなのだと思う。

先日の台風騒ぎでこんな事があった。
電車が全て止まってニッチもサッチも行かない。いつもこんな時に頼りにしている老母に、車で迎えに来てもらう間、老父は孫三人と留守番をしてくれた。料理なんて何も出来ない人なので、孫達にカップ麺を食べさせたらしい。普段、あまり食べていないから、子ども達は楽しんだろうと思ったら、長女曰く「でも、お母さんのお料理の方がいい。」とぽつり言った。
毎日、手の込んだ料理は何一つ作れない。言うなれば「茹で加減、塩加減」だけで勝負している「男の料理系」母の味だけど、この一言が出たかと、妙に感慨深かった。
毎日の食事は、栄養補給もさるとこながら「ここに必ずある」と思える自分の拠り所と「ああ美味しい。ホッとする。」と弛緩する感じが、身体の芯を作るのかも知れない。

DEEN&DELUCAでは、スタッフ皆さんの食に対する並々ならない熱意を知る事が出来て、ややもすると、いい加減になっていた毎日の「食事を統べる」家業を見直すいいきっかけになった。「味なんてどれも同じ」と言わないで、塩だけとか、だしだけでも、ちょっとこだわって丁寧に作ってみようかと、改めて思う次第である。

【DEEN&DELUCAおすすめクリームキノコペンネ】
1 季節のキノコ沢山をオリーブオイルで炒める(私はタマネギも加えました)
2 生クリーム 200 mlを加え、キノコペースト(DEEN&DELUCA製)を加えて味を整える。(必要なら塩こしょう)
3 ペンネは表示よりもオーバーボイルにする。

2011年9月19日月曜日

司馬遼太郎の「かたち」〜「この国のかたち」の十年〜関川夏央著

たぶん、二年近くこの本は「積ん読」状態だった。題名に惹かれて買ってはみたものの、開いてすぐに、
「これは『この国のかたち』を読んでいないとまるで面白く無い本だ。」と悟った。
この度、文庫版「この国のかたち」(全6巻)を読み終わって、早速読んだが。。。もの凄く面白かった。そして、この本に沿って、もう一度「この国のかたち」を再読したくなった。

この本には、十年に渡って文芸春秋の歴代編集長宛に、司馬さんから送られた私信が、年代順にしかも時事と絡めてよく分かる構成で綴られている。巻頭エッセイとして執筆された「この国のかたち」の原稿が送られて来る時に添えられた、書簡である。
今でこそ「メイキング」は当たり前で、創作の「裏側」も意識的に記録されているが、この当時(1986年)はそんな事は考無かったろう。司馬さんの人柄が滲み出る物で、さすが「書き言葉」の人だと思わせる。短い文章に相手を気遣ったり、時事を鋭く評する言葉が並んで興味深い。

そして、それに負けていないのが関川氏の、探偵ばりとも言える丹念な「裏取り」作業による事実の積み上げだ。書簡は原稿と綺麗にセットになって保管されていた訳では無いのだろう。日付と掲載された原稿の順番とを照らし合わせて「第○○話「○○」に同封か」と推定された箇所が幾つもある。そして、当事者しか分からない「昨夜は多いに愉快でした。」と言った内容は何の事だったのか、関係者に裏を取って解説をしている。この丹念な仕事で、読む側もまるで編集部に潜り込んだ様な、司馬さんを囲む歓談の輪に交じっている様な、リアリズムを体験出来る。
関川氏は、直接司馬さんと交流を持った事は無かった。であるが、この仕事ぶりはリアリズムを追求した司馬さんの業績を語るに相応しい。本当によく構成されているのである。

「あの当時(90年代初頭)メディアは『困った時の司馬さん頼み』だった。」
地価沸騰、冷戦終結、バブル崩壊、住専問題、、、皆、何が起きてどうしていいのか判らず、こぞってコメントを受けたがった。それまで『自分の領分で無い事には出しゃばらない』と身を律し、政治的コメントは極力避けて来た司馬氏の態度に、やや変化が現れて来た、、と関川氏も語るが、「この国のかたち」だけを読んでいると、うっかり「歴史的教養を教えてくれているのかなぁ。」と漫然と読み下してしまう。今から10年以上も前の連載だから、時事との関連に気付きにくいし、高等な隠喩だったりするので、昨今、私を含めた「学力低下組」にはガイド無しには、この滋味深い文章の真髄がなかなか理解出来ない。

驚くべき事に、司馬さんは亡くなる前日に最後の「この国のかたち」を書き上げて編集部に送っている。いつも、用意周到で進行する事態に遅れを取るのを、極端に嫌がったそうだが、それは、氏の「清々しく凛としてカッコイイ」主人公達に共通する素地だ。やはり、作家はその写し身を小説に表すのか。。

「この国のかたち」自体はとても読み易く、面白い随筆集だ。そして、注意深く読むと大胆で「蒙を開かれる」記述が、さらりと書いてあったりして、まだまだ自分のなかでは未消化だ。未消化ながら、その一旦をご紹介すると。。

軍事とは、一般教養なのです。一般教養として身に付けておくべき科目なのに、極端に忌み嫌ってしまったらどのような事になるか、、
自動操縦のまま、ずっと日本は来てしまいましたな。そしてこれからどうなってしまうのか、、
文明とは、誰もが参加出来る所まで便利な道具立てが揃った事を言うのです。「最近の文章はどれも同じに見える。」と同僚が言った言葉に「ついにそこまで来たか!」と嬉しく思いました。言語は誰もが参加出来る所まで錬磨されて初めて文明の道具足り得るのです。

本当は正確に引用しなければならないけれど、ここでは印象に残った言葉を思い出す形にサボってしまう。(司馬さんごめんなさい)
、、、というのも「ああ、もっと教えてもらいたかった。」と嘆く私の目の前に、50代前後の諸先輩方の著作が最近気になるのである。この関川氏もそうだし、加藤陽子氏も面白い。この本に触発されて、読みたくなった書籍もまた「積ん読」に加わってしまったので、先を急ぐ事にしたいと思う。





2011年9月11日日曜日

さかのぼり日本史 幕末危機が生んだ挙国一致 第1回「王政復古・維新の選択」

一ヶ月再放送で、休止されてたこの番組。9月に入ってまた開始されました。その間、これまで放送分の書籍を読んだけど、これもなかなかコンパクトにまとめられて良かった。 (そのエントリーはまた別の機会に)
さかのぼり日本史 幕末危機が生んだ挙国一致 第1回「王政復古・維新の選択」

さて、動乱の幕末と言えば、ネタも豊富でファンも多い。その時期のターニングポイントにどれを選ぶのかなと思ったら(とにかくこの時代はターニングポイントだらけ)「王政復古」ですか。さすが、ずっと研究してらっしゃる方は、視点が深い。

去年の大河ドラマの影響で、どうしても「薩長同盟」とか「大政奉還」あたりが脚光を浴びがちだけれど、「王政復古」はその持つ意味が違うと、三谷博先生(今月の解説)は考えるのだろう。
日本史では「大政奉還・王政復古の大号令で幕藩体制は崩壊し、以後近代化への道へと、、。」とワンセットのように習って、両者の違いにあまり注目されないが、よく考えると、
・大政奉還→徳川慶喜が「してやったり!」
・王政復古→岩倉具視が「してやったり!」
で、その後の展開を左右する、重要な切所だった訳である。
「幕末ってよくわからない(且つての私もそう)」と嘆く人は、このあたりの機微を上手にガイドしてくれる日本史の先生に出会えなかったからだろう。

幕末とは不思議な時代で、動乱しているのに、参加者全員が「このままではいかん!」という感覚を共通して持っていた所にある。言い換えると、その事に鈍感な役者が都合良く舞台から退場している点が、絶妙としか言えない。

やや番組から逸れるが、「鈍感」の代表と思えるのが、慶喜の前の将軍の「徳川家茂」と明治帝の先代の「孝明天皇」ではないかと、個人的に思う。。。「鈍感」とは言い過ぎだとしても、この二人が急逝しなかったら、大政奉還も王政復古も無かったろうと思う。二人は5ヶ月と離れずに相次いで亡くなってしまうのだ。(1866年8月29日家茂、1867年1月30日孝明天皇)
孝明天皇は自分の異母妹を、家茂に嫁がせ(和宮降下「公武合体論」ですね)徹底した異国嫌いで、基本的には国の舵取りは徳川がする。。と思っていたお人で、公家の中でも下位だった岩倉具視は、和宮降下の手配をする等、孝明天皇の近習として仕えるが政争に破れて、謹慎蟄居の不遇をかこっていた事がある。この時期、幕末の志士達と多く接触して「倒幕派」へと転向して行く。

話を番組へ戻すと、大政奉還で征夷大将軍という任を、朝廷へ投げ込む様に(と司馬さんはよく言う)押っつけた慶喜は、藩主をメンバーとする「合議体」で政治を行い、その元首の位置に徳川家が着こうと目論んでいた。
岩倉はその手の内がよく分かるので、誰の言いなりにでもなる明治帝(当時僅か14歳、仕方無いですね)に「王政復古の大号令」を上奏して、それを勅旨として発行させてしまう。それも、薩長土肥の軍に御所を堅く固め、慶喜の居ない隙を狙って閉め出す形で出してしまうのだ。(王政復古には徳川家の領地没収という事まで含まれていた)

「とにかく、外側だけ変わったように見えて、中身が変わらない(相変わらず徳川が一段高い)のでは、何もならない。」と岩倉具視は信念の様に思っていた、、、と三谷先生は語る。この後、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと内乱を迎えるのだが、幕府の息の根を止めるきっかけが、王政復古だったという認識は今まで薄かったなぁと思う。

そもそも、岩倉具視って「500円札」(古い!)ドラマでも「公家の癖に策略家」とかどうしても薩長に視点が行きがちで、言わば
「メンドクサイ、役所の手続きに妙に詳しく、倒幕の志士に理解のあるおじさん。。」
という理解しかしていなかったが、なかなか策士だったのねと改めて理解した。

この時代、どの階級でも「下位」の人間の方がリアリズムを持っていたんですね。


2011年9月7日水曜日

学童クラブの閉鎖

上の子二人がお世話になった学童保育が今年度一杯で閉鎖される事になった。開設は昭和30年代の高度成長期からで、目玉は、保育園に併設されている点。当時、保護者から強い要望があって保育園の先々代園長が、開園に踏み切ったそうだ。(今でもこんな例は稀ではないだろうか。)恐らく、親子でお世話になったケースもあったろう。

閉鎖の直接の原因は、今年度から近所に近接して開園した学童クラブに、多くの子ども達が移ってしまったからだ。運営が成り立つ定員を大きく割り込んで、このままでは厳しいと判断したそうだ。

我が家の場合、長女は小三の夏休みまで、長男は小二の春で卒業してしまって、今、丁度縁が切れてしまっていたが、まだ、末っ子も居たので残念である。
この一件から、いろいろ考えてみた。

何故、大量に子どもが移ってしまったのか
ママネットワークは強烈である。私はあまり浸かっていない方だが、それでも、漏れ聞く噂は知っている。これまでも、学童の運営方法に細かい不満が溜まって居たし、それは分からなくも無かった。
・開園時間が短い(保育園よりも早く閉まる)
・夏休み一週間閉所してしまう
・長期休みの開所時間が遅い
・宿題をさせる雰囲気が無い
・小学四年までしか在籍出来ない
・月謝が高い

でも、対抗馬の新設学童も、さして違いは無さそうである。
ほんの少し、利用し易いという程度。
本当の原因は、運用者である指導員さんと、保護者達があまり上手くコミュニケーション出来なかった事が原因では無いかと思う。
その人も、もう指導員を辞めてしまった。頑張り屋だけど、権威に弱く、杓子定規になりがちで、利用者から見ると「上ばかり見ながら仕事する」と思えたのだろう。少しでも決め事を守らないと、衣を借りて居丈高になる癖があったのかも知れない。

結果、コンフリクトを起こした当事者達は双方舞台を去り、残された、学童クラブは空中分解してしまった。

創始者の園長は、とても篤志家だったのだろう。福祉法人といして補助金がかなり入っているとは言え、人の子どもを預かる事業は割に合わない。一度始めたら性格上、行政からもアテにされ、またそれを「頼み(矜恃とも言える)」として役目を果たすつもりで、運営していたのだろう。事実、その時代を僅かに知る人は「本当に頼りになる心の拠り所の様な園だった」と言う。
だが、個人経営は難しい。篤志家の子孫が篤志家とは限らない。親族が最優先に昇進を約束されるあからさまな同族経営は、人的リソースが生命線の福祉事業では、致命的な欠陥になる。優秀で問題解決能力や、コミュニケーション能力の高い人材はドンドン流出して、一年と居つかない。最後は「居ないよりはマシ」な人材しか残らない。
競争に負けたと言えば簡単だが、これまで築き上げて来た環境を考えると、愚かだとしか言えない。資産の食い散らかしだ、、と思う。

多分、ここに至るもっと手前で幾つもの転換点があった。その小さな一つ一つの点を丁寧に拾っていれば、例え強力な
ライバルが現れても、盤石だったろう。学びと創意工夫を怠った。
早朝、夕方のスタッフが確保出来ないなら保育園と合流するとか、分単位の細切れ延長に対応するとか、、異年齢と接する事は子どもにとっても成長するチャンスなのだから、もっと自由に知恵を出し合えたらと思う。

それとも、厳しい規制があって自由にプログラムを組む事を禁止する法律でもあるのだろうか?

田舎の素晴らしき大雑把さ
都心の私鉄沿線には、働く親にとって夢の様な学童クラブがあるらしい。利用者が喜びそうな、きめ細かいメニューは、さすが、経済原理の働く都心である。しかし、値段を見て驚いた!保育園並のお高さで、くだんの学童が高いと文句を言っていた我が地区の保護者は目を回してしまうだろう。
そう、不満を解消するには、コストが必要なのだ。子育ての外注化である。
お迎え、宿題、夕飯まで食べて、ついでにお風呂に入れてくれたら最高!(これ、高度成長期のお父さん達ですね。家庭内丸投げ発注!)
おお!便利そぉ!と思わなくも無いけど、、まぁ、多分ここまでのサポートは必要無いかな、と直感的に思う。
勿論、家庭の事情は様々なので、サポートが出て来た事は喜ばしい。ただ、最近思うのは、助けてもらって楽になった…その後を考える事って必要だなと思うのだ。
特に、子どもは成長する。成長の萌芽を潰したり、枯らさない為に、別の忍耐が必要だと痛感する。

閉所してしまう学童は、四年生までしか預からない。それを不満に言う保護者も居たが、私は長女が利用し始めて直ぐにその理由がわかった。
個人差はあれど、小学生も三~四年になれば、自分でいろいろ出来る様になる。いつ迄も、親が送り迎えする学童に居続ける方が妙なものだ。長女と同級の男の子達は小二に上がったら、カバっとやめて行った。もう、囲われた環境では彼らは発散出来ないのだ。新米母だった私には、少なからずショックだったが、やや田舎な我が街の、荒っぽい良き伝統だなと理解している。
昔と違って、子どもが少ないから、徒党を組んで遊べないし、アポ無しで偶然お友達と会うのも難しい。それでも、逞しく放課後を子ども達なりに過ごしている。お稽古に自分で行く子、家で勝手に過ごす子、時に近所の駄菓子屋へ行く子、子どもの足で行ける範囲に五つも公園があるから、親が家に居ないので、誰かの家に上がり込んだり、逆に友達を上げてはいけないと言っても遊ぶ所には困らない。少しづつ自分で自分の身を処す練習が始まっているんだと思う。
我が家の場合、私の実家が近所にあるので、緩い見守り環境があるからなのだろうが、、お年寄りが日中家に居てくれる街と言うのは、ありがたいなと思う。

この地域の良さを、上手く経営に取り入れて、もう少し、ITの便利な所を勉強すれば、優良な住人を呼び込めて、今のスタイルを維持出来たのに、無理に都心スタイルのメニューにせずとも、小回りの効いたリーズナブルな学童運営が出来たのではないか、、。そんな事をツラツラ思った。

何より、後進の人達に申し訳なかったなぁと感じている。



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2011年9月2日金曜日

「誰もが書かなかった日本の戦争」田原総一郎著

一人称の文体はとても読み易い。この本は中1の娘にも薦めようと思う。第二次世界大戦を描いた書物は多くあるが、2000年代に入った頃から、少し冷静な事実分析の書物や論調が出て来た様に思う。

私が小学生だった頃は、まだベトナム戦争中で、学校の授業でも
「日本は平和ですね。今、こうしている瞬間にも、世界では戦争で苦しんでいる子供達が居ます。戦争はいけません、軍隊は駄目です。」
が正論であり、唯一無二の真実である!以上…。だった。(今だって平和が尊い事に変わりありませんが。もちろん戦争反対。)

「満州事変」「日中戦争」「五.一五事件」「二.二六事件」「日独伊三国同盟」「日ソ不可侵条約」言葉は知っているし、それが何だったか、試験で問われて解答欄にスパッと書く事は出来ても、上っ面の事象を点でしか知らなかった。(自分の知識がその程度だという自覚だけはあったけれど。)

そして、情緒抜きには語られない話題でもあった。
「はだしのゲン」「ガラスのうさぎ」「猫は生きていた」、祖父母は戦中に子育てをした世代だったし、朝ドラのヒロインは永らく「復興の中立ち上がるヒロイン」がお決まりの型だった。(現代でもそうか!「ゲゲゲ」も「おひさま」も…)

この、田原総一郎著「誰もが書かなかった日本の戦争」は、中学生でも読めるよう、キチンと注釈を付けながら、平易な語り口で、明治維新から終戦までを描いている。
注釈を巻末や、章末にまとめず同一頁内にレイアウトしているのは好感が持てた。子供がしっかり細部まで噛み砕いて理解するにはこの方が良い。(エディターさんに拍手!)

猪瀬直樹氏著「昭和16年の敗戦」や、加藤陽子氏著「それでも日本人は戦争を選んだ」と並んで、これから歴史を学ぶ人にはお勧めの本である。
以下、印象深い内容をトピックで。。。

伊藤博文と世代間抗争
私の年代だと、伊藤博文は「千円札の人」で馴染み深いが、今はそれを知らない世代も多い。また、韓国の青年達に、今だ嫌われている人物(韓国総督府初代統監)だが、田原氏は、その人物に焦点を当てている。

伊藤博文が若き日に学んだ松下村塾の師匠、吉田松陰は「周旋家」と伊藤の事を評している。司馬さん曰く、これはあまりいい意味の言葉では無く、伊藤自身もそう評された事を苦々しく思っていた節があるそうだ。(後年、松下村塾の話しをあまりしたがらなかったとか…)
だが田原氏は、この松蔭が見抜いた「伊藤の美点(と、あえて言おう)」あったればこそ、あそこまでの仕事を成したのだろうと書いている。

日露戦争開戦の時、伊藤は最後まで、明治帝と共に開戦に反対した。この下りは「坂の上の曇」でも詳しいが、田原氏はこの時を「維新一期生(伊藤)」と「二期生(桂太郎首相/川上操六陸参)」の世代間抗争だったと表現した。これは秀逸な分析で、坂の上ではそのデティールがややボヤけている。

「伊藤には、身体の中に馬関戦争の頃の砲弾の音が深く刻まれており、その点政治家としての感覚を外さなかった。」(坂の上の雲より)

という有名な下りがあるが、その意味がようやく分かった。
伊藤は、開戦にも反対だし、韓国併合にも反対(韓国に近代化して欲しいとは思っていたが)だったが、どうにも覆せないとなったら「私見」では無く、国を代表する者としての発言をする。その姿勢が「周旋家」だと田原氏は言う。日露開戦を巡って山縣との政争に敗れる形で、閑職(枢密院議長)に追いやられた伊藤は、その後、韓国統監の職に着く。これも「親韓派」の自分では無く、別の人間が行ったらもっと酷い事になるだろうと判断したからだと言う。

そういえば、且つて、名シリーズ「NHK 映像の世紀」で、伊藤博文の大磯別邸で、韓国の幼い皇太子(後に日本の皇族女性を妻に迎える)を養育している映像が流れていた。体のいい人質であるとも言えるが、私邸で大切に、しかも当時としてかなり開明的な環境で、皇太子を育んでいる行為が、彼の半島に対する思いを物語っているように思える。
しかしながら、就任した伊藤は、韓国の強い反日運動に晒される。このあたり、立場の辛さである。最後は、統監退任後の1891年にハルピンで韓国独立運動家の安重根に暗殺されてしまう。

5年前山口県の萩を訪れた事があるが、伊藤博文の生家と晩年首相になってからの邸宅が二つ並んで保存されている史跡に行った。
生家は本当の掘っ立て小屋で、土間と小さな板間が幾つかある程度、びっくりするほど粗末だった。ここから、松下村塾村塾(簡素だけどそれなりに大きくて立派)へ通った農家の少年が、怜悧でかっこイイ上世代--高杉晋作や桂小五郎をどんな思いで見つめていたのだろうかと思う。転じて、邸宅はなかなか立派で、贅沢な建物だが「公的」なスペースの方が大きく、プライベート空間は
「この位なら許されるかぁ。」
という可愛げを感じた。この時代の人達は多くの仲間の血の上に、今の自分がある事を骨の髄から知っているから、何処かで抑制が効くのかも知れない。

伊藤博文は大変な女好きで、そちら方面は派手だったという。彼を主人公にした歴史小説を聞いた事が無いのだが、今一つヒーローというには、下世話な所があったり、やや、つまらない男という印象を持っていたのだが、田原氏の記述を読んで
「それでも、エラく頑張った人なんだなぁ。」と再認識した。

近衛文麿と松岡外交
本書の多くは、昭和初期の動乱期にページを割いている。
様々な人物が登場するが、焦点を当てているのは、近衛文麿と松岡洋右の二人。
開戦当時の首相である東条英機よりも、その前に長く政権を担っていた、近衛文麿に、田原氏の視線は向かう。

一時ベストセラーになった「白洲次郎 占領を背負った男」がNHKでドラマになったが、ここで、白洲は近衛に向かって
「貴方は、軍を利用して避戦にもって行こうとおもっているのだろうが、やり方が中途半端なんだ。」
と詰め寄る。ドラマではどう中途半端なのか描かれていないのだが、田原氏は「ここぞと言う時」の判断に甘さがあったと指摘する。

近衛は、五摂家出身でインテリであり、当時は絶大な期待を持って迎えられたが、
「苦労知らずのお坊っちゃまだから、ギリギリの踏ん張りが効かないのか。」
と田原氏は評する。
、、、どっかでも聞いた記憶が、、
地生えの叩き上げのしぶとさ、という点を伊藤博文と比較したのかも知れない。

そして、外交の失敗である。
日米関係がおかしくなり始めた頃、外相の松岡は日独伊三国同盟野約束を取り付けて意気揚々と帰国するが、そこで「日米諒解案(駐米大使野村と米国ハル国務長官との間に交わされた合意の叩き案)」なる物が進行中と知り、大反対して潰してしまう。

「アメリカの言いなりになるな、あの国は理解していると見せかけて、腹の底では相手を軽蔑して、結局、自分達の思い通りにするんだ。」

アメリカで育ちで誰よりもアメリカ通だった松岡は、非常に饒舌家でリベートでは他を圧倒したと言う。
実は、この著書で描かれる松岡像と、私がそれまで読んだり聞いたりした内容とが、微妙にニュアンスが違うと感じた。
東大の加藤陽子氏は著書「それでも日本人は戦争を選んだ」で、松岡も決して開戦を望んだ訳では無く、国連に出向いた時は「避戦」が至上命令だったのに、渡欧中に中国で陸軍が軍を動かしたりする等「後ろから撃たれる」状況があって、止むに止まれず、破れかぶれであの脱退演説に至った…的理解だった。そのあたり、もう一度「それでも〜」やNHKスペシャル「なぜ日本人は戦争をしたのか」を再読/再視聴しようと思う。

松岡洋右にどこまで責任があったのか、少し脇に置くとしても、決定的にまずかったのは当時の外交チームの情報収集能力の低さと相手の事情を斟酌する、洞察力の鈍磨である。

司馬さんは、アンチ派から『明治は偉い、昭和初期は駄目。の固定観念を植え付けた』と揶揄されるが、私はやっぱり司馬さんの言う通りだと思う。

加藤周一氏は晩年の映像で
「明治の人間は現実的判断が出来た。極めて不愉快だが、そうしなければならないのなら、現実的選択をした。三国干渉なんぞは、無茶苦茶な言い掛かりだけれど、三国相手に喧嘩は出来ない事をしっかり理解していた。」
と語っていた。

日露開戦時、大山巌は留守役の山本権兵衛に
「軍配の挙げ時をよろしく頼みます。」
と言い残して、中国の戦線へ出発した。
仲介役はアメリカをアテにしていた。日英同盟による有利さ、欧米諸国は日本がロシアの相手をしてくれると都合が良かった、、等を読んでいた。昭和のそれと比較すると、苦労人らしい大人の判断が、垣間見える。それでも、自国の力が貧弱である事は充分自覚していた。坂の上を読めば、如何に懐が苦しかったか、薄氷を踏む展開の連続だったかが解る。(戦争公債をよく売れたなと思う)身のほどを知りながら、クタクタになって判定勝ちに持ち込んだ。。それが現実だったのだと思う。

NHKが特集していた「シリーズ:日本人はなぜ戦争へと向ったのか」 を観ても、あの悲惨な戦争に転がり込んでしまった原因は一つで無い事が分かる。誰か少数の人間が意図した訳でも無く、小さな判断ミスや肥大化した組織のセクショナリズムが、大きな利益よりも、ごく小さな自分達の益を追ってしまう事が積み重なった。

何で、こんなにあの当時の事が気になるのだろうと最近思う。
過去の成功体験に捕われた判断ミス、機会損失、情報収拾能力の低さ、感度の鈍さ、つまらないプライド。時代は違うが、今に重なる所が多い。今、漠然と感じている危機感と関係あるのかも知れない。